たゆたうような、酷くぼんやりとした意識の中で、月子は夢にみた光景を朧に思い出し、反射的にふやりと口元を緩めた。
涙が出るほど幸せで、息が止まるほど切ない記憶を辿る夢。
多分に美化された記憶なのだろうが、確かに現実だった過去を、月子は時折こうして夢にみていた。
冷静に考えれば、自己愛にまみれたこんな夢ほど恥ずかしいものはない。
しかし、心はいじましくもそれを欲しているのだろう。
実際に見てしまえばその酩酊感に罪悪感など簡単に麻痺する。
お陰で夢から醒める度に、このまま死んでしまえたらどれだけいいだろうと幾度も願った。
頭がハッキリしてしまえば、それが過去の夢だと分かり、絶望感に発狂したくなるからだ。
後悔すればこの幸せな記憶は厄介な過去に成り下がる。だから決して後悔はしない。
けれど、そのために支払う代償は人一人には到底払い切れないほど重く、いかな月子とは言え、それは耐え難い重圧であった。 
その経験則から、月子は無意識の内に覚醒を嫌がり、まだ温かい布団の中に顔を埋めた。そうして再び意識を失おうとした時、夢よりまだやわらかい、不思議な声が耳をくすぐった。

  

「やれ、ようようこっちゃに来れたや」

  

それは誰のものともはっきりしないが、酷く懐かしいような気持ちになる声だった。 
 
 

 

 

 

  


#027  うたかた
       
     

  

 

 
気がつけば、月子は奥座敷に立っていた。
見慣れた座敷のそこかしこの調度に特別の変わりはなかったけれど、何故か部屋中に魔除けと教わった煙草の黄色い煙が立ち込めていた。
不思議に思って周囲を伺っていると、いつの間にか麻衣が側にやってきて、ふやりと、彼女独特の毒のない笑顔を向け、明るい声で月子に話しかけた。
  
「危ないものに話を聞かれないようにしてあるんですよ」
 
なるほど事態は切迫している。幽霊の相手にはプロの者達のことだ。それなりの対応をしてくれたのだろうと納得して頷くと、麻衣はこれでゆっくり話ができるとやんわりと微笑んだ。
春の陽射しのような、眩しい程の笑顔につい気が緩んで、月子は気安い口調で麻衣に尋ねた。
「何か話があるんかい?」
「はい。月子さんの話を聞きたいんです」
「俺の?」
「そう、月子さんは本当はどうしたいのかって話。それがわかんないとこれからどうしていいのか分からないでしょう?」
小馬鹿にされたようなその質問に月子は反射的に反感を持った。が、邪気なく微笑む麻衣を悪戯に貶めるのも気が引けて、月子は少し考えるように唸ってみせた。するとすかさず、麻衣が本音で!と念を押したので、月子はくすりと小さく笑った。
自分はどうにもこのような幼いタイプに弱い。
どうせ誰もいないのだし、と月子は肩の力を抜いて麻衣と向き合った。
「そうやなぁ・・・・ここには草ばぁばもおらんし、本当のことを言ってもいいか」
「うん」
「嬢ちゃんの所の渋谷さんが言っておったやろう?」
「ナルが?」
「そうや、俺の本音はずっと変わらん。何もしたくない。先代が俺を怨んでるなら、その恨みを晴らさしてやりたい」
「・・・・あれは姫神ではないってはっきりしたのに?」
「そうやな。それでもこれは俺への罰やろう。俺は罰を受けたいんや」
どうしても素直に謝罪はできないけれど、と、月子が心の内で苦笑しながら答えると、それに対して麻衣は不思議そうに首を傾げた。
 
 
「島が乱れた理由が別にあっても?」
 

驚きのあまり月子は言葉をなくし、目を見開いて麻衣を見つめた。
しかし麻衣はそれを気にかける様子もなく、にこにこと微笑んだまま話を続けた。
「それでも月子さんは時子さんの恨みを受けるだけでいいの?それで時子さんが本当に恨みを晴らせればいいんですか?残酷なことを言えば、それで時子さんが成仏できるかどうかもわからないのに」
「嬢、ちゃん?」
「島が荒れたのは姫神がいなくなったため」
「・・・・・そう、や」
「時子さんは生き神として姫神を象徴していたけれど、姫神そのものではなかったですよね」
「・・・・・」
「時子さんだって、姫神であることよりも、母親であることよりも、自分自身であることだけに執着していた。だからあんなに酷いことができるまで、月子さんを妬んだりしていたんですもんね」
「姫神さんが人間のように一つの人格を持った神様やなんて、えらい昔語りや」
搾り出すような月子の返事に、麻衣はごくあっさりと頷いた。
「じゃぁ、時子さんが亡くなったものと、姫神がいなくなったのは関係ないですよね?」
麻衣の話の内容に月子は眩暈を覚えつつ、熱に浮かされぼんやりしそうになる頭を振った。
「関係なくはないやろう」
「だって、時子さんは姫神さんではなかったことはこんなにはっきりしているじゃないですか」
「魂代え・・・・決め事ができんかった」
「それなら時子さんだって色々しなくなったんじゃないんですか?朋樹さんが言ってました。ずっと奥座敷に引きこもっていて、必要最小限のことしかしなくなった。自分こそ姫神さんを疎かにしていたって。それに社の仕事だって、本当は姫神さんがやるものだったのを足が痛いからって全部月子さん達にやらせていたんでしょう?決まりごとができなくなっていなくなるんだったら、月子さんの代じゃなくて、既に時子さんの代で起きていてもおかしくなかったんじゃないですかね」
「・・・・・」
「でも実際に姫神は月子さんの代でいなくなった。地震はともかくとして、その為に島中に幽霊があふれている」
「ああ・・・・」
「どうしてでしょう?」

 

―――― どうして?

 

突きつけられた質問が頭に巡るまで時間がかかった。
そうしてそれがようやく手に入った瞬間、月子はすとんと足から力が抜けてその場にしゃがみ、背筋を駆ける寒気に両肩を抱いた。
「そもそも、姫神とはなんなんでしょう?」
麻衣は浪々とした声で、まるで歌うように語った。
「姫神とは、姫乃島に降り立ち、海と子どもを守り、祖先を司るもの」
その声は黄色にけぶる座敷の中に、嫌にゆっくりと、伸びるように響いた。
「五穀豊穣、海上安全、子孫繁栄を祈るもの」
そしてそれはやがて麻衣の声色を失い、そのまま胸に染みる声なきものに変容していった。 
「姫乃島の人間が何百年も敬い、大切に祀ってきもの」
「嬢ちゃん・・・・・」 
「では、姫神を降ろす巫女とは?」
「やめや!!!一体なんなんや!!!お前、本当に嬢ちゃんか?違うやろう!?今度は誰や!?いい加減にし!」 
訳の分からない話を中断させようと月子はあらん限りの声で怒鳴った。
その怒声に麻衣はほっと口を噤み、それからこれもまた嫌にゆっくりと月子に向きなおると、底の知れない微笑を湛えたまま首を傾げた。
「誰とはつれない」
そうしてついと腕を伸ばし、麻衣は月子の額を指差した。
「ずっとお前の中におったのに」
「え・・・・・」
「まぁお前の中だけやない。時子の中にも、草子の中にも、樹の人間でも他の者でも、島中の人間の中におった」
「え・・・・・?」
「この島が豊かであるように、美しくあるように、愛しく思うもの全ての中におる。これは願いや」
麻衣、もしくは麻衣の姿を借りるそれは、一層深く微笑んだ。

   

「 それを総じて " 姫神 " と呼ぶ 」   

  

呆然と目を見開く月子に、麻衣は人のものとは思えない笑みを浮かべたまま、歌い続けた。
「海に愛され、子ができて、先が栄える。それは島の繁栄。大事な家族を守ること。
先のもの後のもの、全ての祈りの形が俺を成し、祈りを成就するために俺が生まれた。
俺はこの島の祈りであり、望みであり、そうあるための秩序や」
「・・・・・ひめ、かみさんは、俺ら・・・・自身?」
「そのものや」
麻衣、もしくは麻衣の姿を借りるそれは、ゆるゆると微笑むと月子の頭を撫でた。
「月子は賢いねぇ」
「・・・・」
「姫神とは一つの神ではない。一人の人でもない。たゆたう海のような、深い、大きな思いの流れや」
「待って・・・・なぁ、そしたら姫神さんは?いや、俺らは?姫神と祀られた女は?」
「巫女やろ」
「そやから・・・」
混乱し、髪を振り乱して問い詰める月子に、麻衣の姿をした者は気の入らない口調で淡々と告げた。
「いつの間に俺の形そのものみたいになったんかは分からん。そもそもは巫女一族は俺が島のすみずみまで行き渡るように、皆が同じ事を望み、力をあわせる為に導くもんやった。それが転じて生き神のようになったんやろう」
「巫女の約束事は!」
「巫女の家系を形作っていくための約束事やろう」
「そやったら・・・・巫女なんて意味がなかったんかい?」
「ないわけやない。一番に影響力は強いんやから」
「・・・・やって・・・・」
「時子と月子の違いではっきりしとるやないか」
「え?」
突如突きつけられた名前に怯えるように顔をこわばらせた月子を見つめながら、麻衣の姿を借りたものは月子の額に当てた指を小さく弾いた。
「姫神さんは死んだ。おらんようになった」
「・・・・」
「そう信じる月子の心はえらい重くて、人の心をゆすぶった」
「・・・・それは・・・・・」
「時子がおらんようになったからが問題ではないんやよ、月子」
「・・・・」
「時子はあれで姫神には疑いを持たんかった。先祖のように敬虔やなかったけれど、いないとは信じておらんかった。けど、お前は罪とともに不在を感じた」
それだけのヒントで何かを悟った風の表情を浮かべた月子の顔を覗き込み、麻衣の姿を借りたものは満足気に微笑みながら告げた。 
 
「時子と月子の違い。それは巫女であるお前が " 姫神の不在 " を信じたことや」
 
麻衣の姿を借りるものがそう言った瞬間、周囲を取り囲んでいた奥座敷の床や壁は薄く霞み、2人の身体は深山よりもまだ高い空中に浮かぶような格好になった。 

「姫神は望みの形、島の秩序」

眼下に広がるは姫乃島。
よく見ればそこに見える色は雪の白さも掻き消えて萌ゆる緑に埋め尽くされており、その隙間に点在する形あるいくつもの人家からは人の息吹が感じられる煙が立ち昇っていた。
つい20年程前には当たり前のようにあった、懐かしい、活気ある島の光景だった。が、
それが乱れたことによって、死んだものは迷い、生きたものは枯れ、島は海にのまれた」
麻衣に姿を借りたものがそう告げた瞬間、大きな波が轟音と共に押し寄せ、視界を奪い、次に気がついた時には、眼下に横たわる姫乃島は酷く傷つき、裏寂れた現在の様になっていた。

 

 

 

 

 

 


はたはたと、月子の頬に涙が流れた。
それを痛ましそうに見つめながら、麻衣は月子の頬に掌を当て、愛しそうに頬擦りした。
「お前は誰よりも島を愛した、島に似合いの娘やった。力が強くて色んなものを引き寄せる。それはお前のせいではないのだが、お前が背負わなければいけないものなんや。もっと早ように教えてやれればよかったんやけど、お前は俺の存在を強く否定して俺を寄せ付けてくれんかった」
「・・・・・」
「俺のような大きなもんが人の口を借りるには色々不都合が多くてな、受け入れることができんのは若くて男を知らん娘っ子の口くらいや。そのくらい怖いもの知らずで、勘の強いものでないと、とうてい我慢ができんようになる。女になってからでは俺に近すぎるんや」
「・・・・・姫神さんの約束事みたいやな」
ぼうぼうと泣きながらも考えることをやめようとしない月子を見つめ、麻衣の姿を借りたものはくつりと笑った。
「そうかもしれんな。いつの間にか交じったのかもしれん」
そうしてゆっくりと顎をしゃくり、座敷奥の洞に月子の視線を誘った。
「時よろしくこの娘が現れた。けれどそれだけや足りない。口を借りたとしても、昨日までの月子やったら疑り深くてようよう側には近づけんかった。今日はお前の守りが弱まって、ちょうどいい塩梅に洞も開いておったからようやくこうして合間見えることができた」
麻衣はそう言うと、その身体には不似合いなもっと大きなものがそうしたような深いため息をついた。
「随分遅うなったが、まだ間に合う。月子、目を覚ますんや」
涙まみれの月子の頬に触れた指先と頬は、ぞくりと寒気がするほど冷たかった。
それは心臓を冷たく凍らせ、指先に至るまでの全ての感覚を奪い去り、月子の輪郭を曖昧にした。
「最後の島の娘、お前は何をしたい?島をどうしたい?」

  

 

 

 
「 望むんや。それが姫神になる。この地にあるもんは全て、その望みのために役立つやろう 」

 

 

 

 

懐かしい、香を焚いたの臭いが意識を攫った。
砂を攫う潮の流れに飲まれるように身も心も流される。
その流れはいつの間にか激しさを増し、いつしか激流に飲まれ目の前は真っ暗になった。
天も地も分からないようになるその流れの中で、月子は様々なものを思い出していた。
胸を膨らます潮風の豊かさ、大地を焼く太陽のぬくもり、ぞくりとするような海水の冷たさ、飲み込まれそうになる夜の深さ、繋ぎとめる人の手の心強さ。そうして唐突に理解した。
 
―――― 目を閉じて、耳を塞げ。
 
優しさに目が眩み、落ちてしまった淵。
けれど自分は起きねばいけない

いつまでも優しいものに守ってもらおうとしてはいけない。 
閉じた瞼を開けて、やらねばならないことがある。守らなくてはいけないものがある。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

月子が目を覚ますとそこはベース奥の仮眠室に敷かれた布団の中だった。
身の内から湧き上がる充足感に堪らず跳ね起きると、その枕元には既に身支度を終え、正装した綾子が座っており、月子が起きたのに気がつくと、髪を束ねかけていた手を止め言った。
「今朝この島にある御神木の精霊が挨拶にみえたの。どうも私に力を貸してやる気はないけど、力を貸してやりたい人があるから、その橋渡し役をやってくれって」
そうして綾子は月子の正面に向き直りにっと笑うと、深々と頭を下げた。

「なんなりとお望みを、姫神様」
さらりと肩から落ちた黒髪に、朝陽が反射して艶やかに輝いた。
その様子に月子は目を細めながら、凛とした落ち着いた声で命じた。

 

 
「 島を鎮めたい 」