島一番の古木、御神木がある場所は、深山の最奥、四十ニ段の石段を登った先の社だった。
石段の先、鳥居の奥にはむろん女性しか入れない。
その為にその場には巫女装束を身につけた月子と綾子、そしてカメラとマイクを携えた麻衣が乗り込み、ナルらは石段下の集会所跡でその様子をリアルタイムでモニタすることとなった。
中継役の麻衣の準備が整うと、月子と綾子は無言のまま顔を見合わせ頷き、すっと背筋を伸ばしてそれぞれに両手を合わせた。

 

 

「姫神の名において」
「謹んで勧請たてまつる・・・・」
 
 

 

 

  

  


#028  謹んで勧請たてまつる
      
     

  

 

 

 

 
ちりちりと、神木の前に立てられた鈴をつけた榊が鳴る。
その度に鬱蒼と茂った周囲の森の木々から、人影がすべりおり、静々と神木の前に歩み出ては掻き消えていった。
いつか、吉見家の時に見た光景とそっくりだ。と、麻衣はカメラのレンズ越しにその光景を感慨深く眺めた。普段はやかましくて頼りにならない綾子だが、こうして生きている樹を呼んでいる時の姿はすこぶるつきに美しく、頼もしい。そして、と、麻衣はレンズの角度を僅かに動かし、祝詞を唱える綾子の横で扇を構え、ゆっくりと舞い踊る月子を写した。
吉見家の時おすがりした樹の精霊と姫乃島の精霊は見え方も消え方もとてもよく似ていたが、唯一つ違うのは、消える前の一瞬、嬉しそうに月子の姿を見ることだった。
島の神々や祖先を慰める舞いを優雅に舞う月子の姿は威厳に満ち、神々しいまでに美しかった。

 

 


根っからの現実主義者では無理からぬことだが、姫神のご神託を受けた月子の話や御神木の精霊と会話をしたという綾子の話を朋樹はまるで信じようとはしなかった。そうしてまた、一晩で人が違ったように意見を覆した月子に、大樹を人質に取られようやく本気になったのだろう朋樹は胸に抱いた不信感を隠そうともしなかった。
確かに月子の豹変ぶりはあまりに唐突で、朋樹以外の者にも大きな違和感を与えた。
天啓とも言える出会いではあったのだろうと、頭では理解できる。が、自虐的とも受け取れる昨夜までの月子は何だったのか、20年間頑なに守り続けていたことはなんだったのか、と反感に近いものを払拭するまでには至らなかった。
その雰囲気に月子が気がつかないわけはない。
しかし時を遡ることができない以上、やれることは島を鎮めることくらいで、それしか大樹や時子をはじめとする島の人間を救くえる手立てはないと分かった月子に迷いはなかった。
誤解などは怖くない。
そんなものはこの20年で嫌と言うほど味わった。
今思うことは素直に島の平穏を願い、大切な人を護りたいと思うことだけだ。
そうはっきりと言い切った月子の表情は、本当に生まれ変わったように清々しく、確固とした自信と決意に満ちていた。
姫神を降ろしたという記憶が無かった麻衣もまた、話を聞いた当初はそんな月子に違和感を感じたが、その晴れ晴れとした決意に満ちた月子の表情に多くの説明はいらないのだろうと自分の感覚を信じることにし、綾子と連れ立って浄霊の準備に取り掛かったのだった。

 

 

 
白磁のような白い肌、艶やかな長い黒髪、そして神秘的で柔和な顔立ちと優雅な身のこなし。
それらを纏う月子は本来元から美しかった。
しかし今ではそれに姫神という自負と自信が重ねられ、その姿は圧倒的な迫力すら醸し出してた。

――― 月子さん、本当にきれい・・・

感動のあまり麻衣は目に涙を浮かべながらうっとりと月子の舞いに見惚れた。
その間にも綾子はいつの間にか刀印を結び空を切り終え、榊を手に取った。
それを皮切りにまるで月子の舞いに応じるように社の周囲から円を描くように人影が吸い寄せられ、中央にいる綾子が榊を振る度、人影は先の精霊と同じように一瞬、嬉しそうに月子の姿を見つめて空に消えた。
確かに現象は多かったが、島のどこにこれほどの霊がいたのか。そう思うほど、人影は次から次へと現れては吸い寄せられるように歩み寄り、榊が鳴って姿を消していった。
中には、17年前の津波の被害者なのだろう、ずぶ濡れで、ぶくぶくと体中を膨らませた子どものどざえもんの姿もあった。
その子どもらも覚束ない足取りで社に集うと、月子に見惚れるように顔を上げ、まるでそこから陽が差していくかのように生来の可愛らしい顔に戻って空に消えていった。
麻衣は夢中でその光景をカメラに収めた。
と、ふいに背後からぐっと肩を掴まれた

ぎょっとして目をやれば、その手は奇妙に細長く、背後の社の高床の底から伸びていた。
その手の指先は指の半分も覆えない程の深爪をしていた。
  
――― 時子さん!!?
 
麻衣の第六感が悲鳴を上げて警笛を鳴らす。
しかし嫌悪感と恐怖心が胃を締め上げて声を出すことも、息をすることもできない。
その間にも指はぎりぎりと麻衣の肩に喰い込み、ざわざわと得体の知れない黒いものが背を撫でた。
  
――― まずい。
 
経験から培った感覚が胸を押す。
これはいけない。と。
その時、麻衣の後ろから、これまた突然白く美しい腕が伸ばされ、躊躇いなく黒く澱んだ禍々しいものを掴み、驚くほどの力強さで腕を引いて社の床下から時子の身体を引っ張り出した。
時子の身体を引きずり出したのは、いつの間に駆けつけたのか、月子その人だった。
月子の手に引かれ、ずるり・・・・と、やけにべったりとした影が地を這った。
その影は着ていた着物の分量のせいか、何故か奇妙に膨らんでいて、その上に付いた首はありえない角度に折れ曲がっていた。 
「月・・・・子・・・さん!逃げて!!!!」
咄嗟に麻衣は乾いた喉から大声を張り上げた。
しかしその声に最初に反応したのは月子ではなく、地べたに這った時子だった。
ゆっくりと俯いていた顔が上がる。
その瞬間、細い首からがくりと頭が落ちた。
落ちた頭はゆっくりと角度を変え、ちりじりに縮れた長い黒髪の中からは目の細い狐顔の顔が現れた。それは月子の姿を見咎めると、にたりと禍々しく微笑んだ。
その表情は思わず顔を背けたくなる程醜悪だった。
「綾子!!」
麻衣が懇親の力をこめて声を上げたと同時に、背後で涼やかな鈴の音が響いた。
ちりりん、と、鈴の音が小さく響いた。
それと共にどす黒く澱んでいた時子の影が薄く霞んだ。
色を失った時子の影は見る間に目鼻立ちのはっきりしない地味なものに変わった。そうして、そうかと思うとすぐに時子は輪郭すら曖昧なものになっていた。そのまま、今正に掻き消えようとする時子を、月子は行かせまいとするように掴んだ腕に力を込め、ぐっと身体を傾け囁いた。

 
 
「ごめんな・・・・おかあさん」
 
 

 
震えるようにか細い、幼い子どものような声だった。
その声に、ふと、時子は視線を月子に移した。そんな気がした。
しかしそれ切りで、巌のように固い時子の表情が変わることはなく、次の瞬間にはあっけないほど簡単にその姿は空に消えた。

 

 

 

 



全ての祈祷を終え、榊の鈴が外れた後に、綾子はその場で腰が抜けたように座り込んでいた月子と麻衣の元に近付き、呆れたようにため息をつきながら零した。
「最後くらい笑ってくれてもいいのに、不器用な人ねぇ」
綾子のその呟きで封印が解けたように月子はびくりと肩を揺らし、目の前に差し出された綾子の手を掴みながら今度は自嘲気味に薄く笑い、頭を振った。
「簡単に許してもらっては困るよ」
「あら愁傷ね」
にやり、と綾子が笑うと月子はしょうがないと言いたげな表情で肩を竦めた。
「笑うなんてしてくれたら、それこそこの場で死にたくなるやないか」
月子がそう言った瞬間、それまで呆然としゃがみこんでいた麻衣が突然月子に抱きついてきた。
下からわき腹めがけてタックルを受けたような形になって月子は驚き、綾子は慌てたが、麻衣はお構いなしで力いっぱい月子を抱きしめ、子どものように声を上げて泣き始めた。
その涙がどうした意味を持つのか、そんなものは麻衣本人にもわからないだろう。
けれど懸命に泣いてくれる姿に、無様な憐憫の情は感じられず、月子と綾子は困ったように顔を見合わせた。泣くに泣けない大人になってしまった自分達には一緒になって泣くことはできない。
ただ、素直に泣ける麻衣の温かいものを汚さぬように、月子と綾子は暗黙の内に口を閉ざした。
 

 

 

 

 

麻衣が泣き止むのを待ってから、祈祷を終えた3人は揃って社の階段を降り、下に待機していた面々に声をかけた。
「終わったわよぉ」
「おう、お疲れさん、首尾はどうよ?」
滝川の問いかけに綾子はふふんと、ふんぞり返った。
「見てわかんなかったの?もうばっちりよ。呼べない存在もなかったしね」
「ほんまにお見事なお手並みでした」
「僕初めて実物見たんですけど、本当に凄いですね」
「そうよぉ、褒めなさい。敬いなさい」
鼻高々な綾子に満面の笑みを浮かべつつ、安原はくるりと踵を返して月子にも笑いかけた。
「またそれにもまして月子さんはおきれいでしたねぇ。お疲れ様でした」
「ああ・・・」
虚をつかれる月子に眉間に皺を寄せる綾子。そうしてその場が騒がしくなったところに、最後に機材を抱えながら泣きはらした顔で麻衣が降りてくると、リンが素早く機材を受け取り、安原はタオルを差し出し、ジョンは微笑み、滝川はぐしぐしとその頭をかき混ぜた。
それを視界の隅に捕らえながら、ナルは月子に声をかけた。
「浄霊の感触は?」
「しっかり見えた。確実や」
「それではもうこの島で幽霊が出歩くことはなくなりましたね」
「ああ、記録係りお疲れさんやったな。これで契約は終了や。もう撮るもんもでないやろうしな」
月子はそう言うと集団の隅でこちらを睨んでいた朋樹に顔を向けた。
「これで今まで島で苦しんでおった死人の気持ちはおさまったやろう思う」
「・・・・」
「一度屋敷に戻る。そうして今度は重三おじと草ばぁばにこのことを説明して謝ろうと思う」
月子の話に朋樹は驚いたように眉を上げ、それから険しかった顔を一層顰めた。
「年寄り驚かせて、寿命縮めさす気か?」
非難めいた朋樹の呟きに、月子はゆっくりと頷いた。
「そうなるかもしれんと今まで黙っとったが、隠し通すよりいいやろうと思うんや」
「・・・・」
「そしたらまずはあの2人に謝らんことには始まらない。姫神さんがおらんようになってもずっと俺の側にいてくれたんやからな」
「・・・・」
「もちろん許してくれるとは思わんよ。でも謝らんといけん」
胡乱な眼差しを向ける朋樹に月子は恥じ入ることなく見返し、小首を傾げた。
「それから"さんしゃ"の社に行って、先代の遺体を掘り起こしてくる。もう骨になっているやろうけど、墓に入れて弔ってやりたいんや」
月子はそう言うと真っ直ぐ前を向き、屋敷に向かって歩を進めた。
ぴんと伸ばされたその背を見つめながら、滝川はいささか居心地が悪そうに頭をかいた。
「本当に人間離れの神経の持ち主だよなぁ」
「何よ、それ」
滝川の呟きに綾子が突っ込むと、滝川は悪口じゃないんだけどよ、と前置きして言った。
「だってさ、何か見事なまでの自己完結じゃん。いや、もちろん昨日までの諦めきった態度よりは数倍正しいと思うけどさ」
「けど、何?」
「カッコはいいけど、どうも強過ぎて立派過ぎるだろう。何だか情に訴えてこないっていうかさぁ・・・」
滝川の文句に綾子は眉間に深い皺を刻んでため息をついた。
「別にぼーずに同情されても仕方がないじゃない」
「そりゃそうなんだけど・・・・人間味がないっての?ほら、俺って基本アングラな人間だろう?ついつい反発しちゃうんだよね」
ごにょごにょと言葉を濁す滝川をねめつけながら、綾子は肩を竦め、そうして心配そうにその様子を伺う麻衣にため息をついた。
 
―――― それは月子のせいではないけれど、月子が背負わなくてはいけないもの。
 
精霊が指摘したその性質を熟知した上で、月子は強くあろうと立ち上がってしまう。

 

 

 


まるで懺悔するように。

 

 

 

 

それは美しくも孤独な贖罪だ。
そんなことは月子自身が誰よりもよく知っているだろう。知ってなお、あえてそれを固持する。
 
 
「不器用なのは親譲り、なのかしらね」  
 
綾子の呟きは雪を散らす潮風に乗って、深山の裾野に吸い込まれていった。