息を飲む、その反応すら厭わしいと、滝川はそのまま麻衣の口を塞ぐように全身を傾け、胸の中に麻衣をしまった。

目測も必要ないほど、麻衣はそうしてすっぽりと胸に収まるくらいに小さく、それでも子供とは違う、女らしい柔らかみを持っていた。滝川はそれに眩暈を起こしそうになりながら、ギリギリとその体を抱きしめ、自分の中の最後の砦を繰り返し口に出した。

  

  

 

   

「麻衣が好きなのはナルだろう?」

   

    

  

    

綺麗で、傲慢で、一癖も二癖もある喰えない男。

傍若無人を絵に描いたよな、悪い男、酷い男。

けれど決して嫌いにはなれない " 信頼を裏切らない男 "

 

 

 

心のどこかで " 適わないと決めてしまった男 "

 

 

 

   

   

 

  

    

 Temperature
体温

 

  

 

   

  

  

 

 

 

 

麻衣は突然の抱擁に慌てふためき必死に身を捩った。

けれど滝川はそれを無視してさらに拘束する腕に力を込め、そのままずるずると麻衣をひっぱり、どこかのオフィスビルが間に合わせで設えた無機質な公園のベンチに麻衣を座らせた。どれだけ麻衣が暴れようと、男女の差は毅然としていて、滝川が本気でそうすれば従わせるのは造作なかった。 

そこでようやく手を離した滝川を、麻衣は明らかに安堵の息を吐きながら恐る恐る見上げ、そういうのは怖いから横に座って欲しいと懇願した。

それでは父親と娘になりきれないではないかと、行動とは矛盾したことを考えつつも、滝川は頷き、麻衣の横のベンチに腰を下ろした。それを見計らって、麻衣は意識していつもの口調で返事を返した。

「私はナルが好きだけど」 

夜の都市部に響くには、幼すぎて、可憐過ぎるような、危なっかしいほどに素直な声。 

    

 

「私はちゃんとナルの手の内にいるのかなぁ」

  

 

しかしその声が尋ねるにしてはあまりに大人びた内容に、滝川は複雑な心境のまま薄く微笑んだ。

「少なくとも、帰国前のナル坊は手の内に入れてると思い込んでいたようだけど?」

「そうなの?」

「そうだよ。自信たっぷりに大見栄切ってくれたから」

「うっそだぁ」

「嘘ついてどうするねん」

「そのわりには優しくはしてくれないよ」

「まぁ・・・・優しくもないし、甲斐性もないわな」

「本当だよ」

「まぁ、ナルだし」

「そうなんだけどさ」

麻衣はそう言うとベンチに足を乗せ、その場でくるんと丸くなった。

「優しくされたいから、私はナルが好きなわけじゃない。ちゃんとそういう風に頭では分かっているんだけどね。こうまで徹底されると自分が何だか優しくされる価値のない人間なんじゃないかって卑下したくなって、やさぐれてくるんだよ。優しくされなかったら、やっぱり悲しいし、辛いもん」

一つだけ息を呑んで、滝川はその名前を口にした。

「で、リュウは優しかった?」

その名前に麻衣はぴくりと肩を揺らし、訝しそうに滝川をみつめた。

「なんでここでリュウさんが出てくるの」

「告られただろう?」

なんだ、知ってるの。と、麻衣は苦笑しながら首を横に振った。

「それとこれとは話が別」

ちゃんと断ったよ。と、麻衣は低く笑って顔を上げた。

「パパは娘が浮気してると思って怒ったの?」

「・・・・まぁ、ありていに言えばね」

「何でぼーさんが怒るのよ」

「何でって、そりゃ、娘の実態を知るお父さんだからな」

「ふぅん・・・でもそれ酷くない?娘をちょっとは信用してよね」

「お尻の青いお嬢ちゃんは、恋の怖さを知らないんだよ」

「・・・・知ってるもん」

「そうかねぇ、麻衣は優しい人に弱いデショ」

揶揄するような、ともすれば非難するような滝川に、麻衣は顔を顰め、それからくすりと微笑んだ。

    

        

      

優しいってなら、ぼーさんの方が何千倍も優しいじゃない」

     

     

    

だから心配なんかしないでいいよ。

そう言って自身たっぷりに微笑む麻衣に、滝川はがっくりと肩を落とし、いつの間にか強張っていた全身から力を抜いた。麻衣はそれに笑いながらなつき、あたかも仲のいい恋人のように寄り添った。無邪気にそうしているだけでもないだろうに、自分への信頼を何とか伝えようとする麻衣に、滝川は薄目を開いて微笑みかけた。

「麻衣、お前何気に酷いこと言ってるんだけど、自覚ある?」

「酷い?」

「そうだよ、優しくい人が好きだけど、優しい俺やリュウではナルじゃないからダメと・・・」

「酷くないよぉ。自分でも損してるなぁって思うことはあるけどさ」

「徹底されててお父さんは複雑」

「そう?」

「麻衣も大概にして酷い女だよ」

「え〜〜一途な女でしょう?」

ぷくりと頬を膨らませる麻衣に、滝川は笑みを深めた。

「だって俺、本当は麻衣のこと好きだもん」

さらりと、時でも告げるような口ぶりの告白に麻衣が固まると、それは笑って受け流せよ、と、滝川は苦笑し、両手で麻衣の頭を抱えた。

吐息もかかる僅かな距離で見詰め合うと、大きく見開かれた麻衣の瞳には困惑と女性らしい恐怖心が滲んでいた。当然だろう。そういうことをしている。

 

―――― かわいそうに。

 

滝川はそう思いながらも、笑みを浮かべたまま麻衣の額に自身の額を合わせた。

伝わる体温は温かく、触れる皮膚は柔らかい。かかる息はとろけるように甘くて、目下の唇は扇情的ですらある。

それも欲目か。

と、

滝川は一瞬のうちで自嘲しながら、引き寄せられるように顎を傾け、僅かに口を開いた。

        

                 

      

        

      

                

                 

       

       

    

 

    

 

     

       

   

   

   

    

「ナルがいなかったら、きっと私はぼーさんに恋してたよ」

   

    

    

             

          

      

      

    

      

     

     

      

       

    

そのタイミングで落とさえれた声は、周囲の音を遮断して、いやに鮮やかに響いた。 

 

 

 

それで思いとどまる自分の性根の弱さに滝川は心底辟易したが、心臓を鷲掴みにするような響きを無視することはどうしてもできなくて、随分と名残惜しくはあったけれど、滝川はその声の為に落としかけていた瞼をこじ開け、厭わし気に視線を這わせた。

かすむ視線の先には見慣れた鳶色の瞳が、真っ直ぐ自分を射抜いている様子が見て取れた。

息をつめて見据えると、その瞳にはもはや戸惑いも怯えも見えず、既に自分に預けられている。

忌々しい程激しく胸を焼き、愛しく思う善意の信頼。

そうしてまた、そうまでされて裏切れるほど滝川の心臓は強くない。 

自分の心臓がまだ正常に動いているのかもよくわからなかったが、滝川は慎重に息を吐き、義務的に息を吸い、くらくら眩暈のする脳みそに無理やり酸素を送り込んだ。

油の足りないゼンマイがぎりりぎりりと耳障りな音を立てて動き出すように、それでも動いてしまった理性を、滝川は、僅かに躊躇した後に諦めたように掴んだ。

    

「俺にしておけば寂しいって泣くことはなかったのに」

「そう、かもしれないね」

「そうだよ、俺、麻衣のことめちゃくちゃ大切にするもん」

「ふふふ」

「ナル坊みたいに偏屈でもないし、素直だろう?」

「ナルほどじゃないけど、ぼーさんも屈折してるんじゃない?」

「どの口がそれを言うんだぁ?」 

  

頬を挟んでいた手で唇をつまむと、麻衣はぎゅっと眉間に皺を寄せて、どうにもぶさいくな表情を浮かべた。それに誰よりもまず滝川が心の底からほっとした。

そしてもう、顔など見なくて済むように、滝川は自分の肩に麻衣の頭を押し付けた。

     

「今更麻衣が他の男に走るのかって、お父さんはびっくりして寿命が10年縮んだ。どうしてくれる」

「怒ったんじゃないの?」

「怒ったよ。裏切られたような気持ちになったね」

「私に?」

「そりゃそうだ。麻衣の二番目の男の位置まで誰かに譲ってやるつもりなんかなかったもん」

「・・・・・私、ナルの次にぼーさん好きだなんて言ったっけ?」

「そんなん顔見てればわかるよ」

「なにそれ、ナルシストぉ」

 

それから互いの頭をこすり合わせるようにして、父子はほっと息を吐いた。

    

     

      

      

     

危なかった。と、

それぞれが胸のうちに同じ事を思ったことは、知らぬまま。 

それは100年の秘密として封印された。   

  

  

   

       

                

     

     

      

      

      

      

      

 

 

  

 

 

モウ開ケナイ