「パパが凄い形相で迎えに来たみたいだよ?」

 

 

非常階段を登る滝川に初めに気がついた夏目はそう言って、階段に背を向けていた麻衣の肩を指でつついた。

慌てて振り返った麻衣は、バツの悪そうな、酷く居心地が悪いと言いたいような顔をしていた。

その嘘のつけない、咄嗟の表情がどれだけ神経を逆撫でるか、きっと正確にはこの娘にはわからないだろう。滝川は怒鳴りたいような、泣きたいような、奇妙に複雑な感情に呑まれながら、それを全部ため息で吐き出し、その場から追い払った。かわいい娘の前で取り乱すのだけは避けたかった。

しかし、そうして近付いた娘からは、よりにもよって夏目の臭いがした。

甘だるい、夏目独特の煙草の臭い。

不意打ちのようなそれに滝川は耐え切れず、取り繕うのを放棄して怖いくらいの無表情で麻衣を見つめた他人の感情に聡い麻衣が反射的に怯えたような表情を浮かべる。

そんな顔はさせたくないと、残った理性が訴えるのだが、根の深い不快感はそれを遥かに凌いで、麻衣に聞かせたくもないような冷たい声を発せさせた。

    

     

     

「麻衣、お前もう帰れ」

「あ・・・ごめん・・・・忙しかった?」

「ん・・・・・それから、もうここ来なくていいし」

「え?」

「つうか、もう来んな」

 

   

     

そして滝川は麻衣に背を向けた。 

    

      

    

     

      

 

  

    

 Apple
禁断の果実

  

 

   

  

 

慌てて後を追ってきた麻衣の泣きそうな声も振り切り、滝川は何事か言い訳をしようとする夏目を伴ってスタジオに入った。夏目の話など無論聞くつもりはなかったので、滝川はそのまま夏目を無視してレコーディングに入った。

気まずそうな夏目を思いやってやるほど優しくも、お人よしでもない。

面倒なことをしてくれると、夏目に対しては何故か裏切られたような怒りを感じていた。

そうして、何故か自分でも驚くほど、滝川は麻衣に対して腹が立っていた。

    

   

   

   

    

まるで奇跡、と、言ったのは真砂子だったか。

 

 

 

  

どうにもうまく興が乗らない演奏の最中、滝川はふとその言葉を思い出した。

ナルが麻衣を好きで、麻衣がナルを好きで、2人が付き合って幸せになるなんて、事の経緯と片一方の性格を考えたら、本当にありえないような奇跡だから、なんとしても成就させたい。

本当はナルのことが好きだっただろうに、美少女と呼ばれるあの気位の高い少女はそんなことを言って結果的にしり込みしていた親友の背を押し、2人が付き合うきっかけを与えた。

その少女趣味な感想を聞いた当初は鼻で笑って嫌がったけれど、自分だって本当はガラにもなくその通りだと思っていた。

ナルと麻衣が付き合うなんて、奇跡のようなことだと。

そうして叶った奇跡だからこそ、どんなに前途多難で、問題は山積しようとも、それでも何だかんだ言ってこの2人はクリアするだろう。世俗にまみれた障害など実はたやすく、取るに足らず、少年少女が夢見るような恋愛事情が全てを帳消しにしてくれるのかもしれないと、ナルと麻衣のことに関してはまるで夢でも見ているみたいに、他の友人たちや自分の恋愛なんかとは別に思っていた。

 

―――― だから、絶対に汚したくない。

 

それが例え善意あふれる愛情だとしても邪魔されたくない。

例え、自分自身のことだとしても ―――― 排斥してしまいしたい。

視界に入る夏目の細い柳腰を横目に、滝川は自身の中に蠢いていた奇妙な感慨に気がつき、苦笑を浮かべようとしたが失敗し、そのまま情けないような表情で俯いた。

 

――― 乙女か俺は・・・

 

いつの間にか染み付いていた妄想は、本人がそれと気がつけないほど強く、滝川を拘束していた。 

  

 

 

 

 

 

 

 

主に滝川と夏目の不調で難航したレコーディングが事実上中断という形で切り上げられたのは22時を回った頃だった。

 

「ま、こんな日もあるよ」

「明日は切り替えて、よろしくな」

 

なんともみっともない慰めの言葉にひらひらと手を振りながらもがっくりと肩を落とし、何かと付きまとおうとする夏目を振り払って滝川は一人帰路についた。

景気よく都心部にしつらえられたスタジオから自宅までは地下鉄を使えば10分、徒歩にすれば40分ちょっとの距離だ。頭を冷やすにはちょうどいいかもしれないと、滝川は駅を背にして自宅に向かって歩き始めた。そうして10メートルも歩かないうちに、滝川は自分の後をつけてくる足音に気がついた。

声を聞かずとも、その気配でおおよそのことが察せられる自分の勘の良さに我ながらすごいと滝川は肩をすくめながら、手元の腕時計に視線を落とした。

 

「つうか、もう10時半回るじゃん。女の子の一人歩きには感心しねぇなぁ」

 

後ずさり、それからぐるりと振り返ると、そこには何かそんなに不満なのか唇をアヒルのように尖らせた麻衣が滝川を見上げていた。

 

「お店にいたから平気だよ」

「3時間以上も? 営業妨害だろう、それ」

「最初は外いたもん」

「ますますダメでしょう」

「だって・・・・」

「俺は帰れって行ったし、もう来るなって言ったはずだけど?」

「・・・・」

 

黙り込む麻衣に、滝川も対抗するように口を閉ざした。

子供のような意地の張り合いだ、と思うけれど態度にまで繋がらない。気持ちまでがついてこない。

滝川がそれで黙し続けていると、滝川が折れる前に麻衣が口火を切った。

 

「ぼーさん怒っているでしょう?その意味がよくわからないのに、それでぼーさんと仲悪くなったり絶対したくないもん。だから、せめて内容をはっきりさせたいって待ってたの」

 

鉄は熱いうちじゃないと打てないから、と変則型の格言まで引用して麻衣は決意を固めたように滝川を見上げた。 

 

 

 

 

 

「私、ぼーさんに嫌われるのだけは嫌だ」

  

 

 

 

 

全幅の信頼。

それは厭わしくも、じりじりと心臓を焼いて、温かい血液を全身に流す。 

滝川はひらりと腕を伸ばして麻衣の肩を抱いた。

そうして、軽く押せば簡単に傾ぐ栗色の頭に顔を寄せ、そこに僅かに残る残り香を確かめ言った。

 

「そしたら、夏目の臭いとかつけんなよ」

「へ?」

「夏目の煙草の臭いがするんだよ」

      

肩を揺らすその態度を封印するように、見慣れた、けれど絶対にこうして抱きしめることはないと信じていた麻衣の細い体を滝川は抱きしめた。

 

 

 

 

 

「麻衣、お前はナルのだろう?」

  

  

    

     

  

何もかもが裏腹なその声は、熟しきった果実のように潰れて、掠れて、まるで自分のものではないようだった。