多少の憂いはあったけれど、時節柄ライブだイベントだと本業が忙しくなり、滝川は日々の仕事に忙殺され、残った酒と共にすぐにそのことを忘れた。
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Cigarette
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「では、これで契約完了です。撮影は9月から本格的に始まりますので、よろしくお願い致します」
味も素っ気もないようなごく一般的な応接室で、これも別れた瞬間から顔を忘れてしまいそうな凡庸なスーツ姿の男は彼なりの笑顔を浮かべ、事務所に集められた4人の男それぞれに握手を求めた。 ――― ここでいきなり握手を求められてもなぁ。 と、滝川は内心で引きながらも、こちらはよく慣れた人好きする笑みを浮かべて手を差し出した。
本業・スタジオミュージシャン。
そうは言っても所詮はなんの保証もない自由業だ。 免許もなければ保険もない。 体が資本の浮世草。 そんな中、今回の仕事は3ヶ月間の長期契約と報酬が確約された、大変条件のいいものだった。 契約主は某大手タレント事務所。 そこでは来年の春に向けて一人の少女が幾多の難関を乗り越えて、最終的には歌姫として成長するストーリーの映画の公開を予定していた。 主演となる某アイドル歌手は数年前までのその事務所の看板を背負って立っていたのだが、アイドルとしては微妙な年齢に成長してしまった為、そこそこの知名度は維持していたものの、かつての勢いを失っていた。 そこで抜本的な路線変更を目指すべく、事務所は彼女に本格的なボイストレーニング、演技指導を受けさせ、本格派として再度売り出し、事務所としても活性化させたいというのが狙いだった。 ストーリーの展開上、その映画には要所要所でバックバンドが必要となった。 セリフ等の出演はほぼ皆無であるが、顔が映り込むことがあるため、ある程度路線のあったビジュアルが必要とされ、かつ、説得力のある演奏ができ、ライブをこなせるという条件を満たせる人物。 その中で白羽の矢が立ったのが、滝川が属していたバンドだった。
ごゆっくりと映画担当の男が席を立ち、バンドのメンバーだけが応接室に残された後、滝川らは互いに顔を見合わせ、それからばっと一斉にテーブルに手を伸ばして渡された資料を開いた。そしてそこに書き込まれた必要とされる音取りの量と、一見して無茶と分かるスケジュールを見て固まった。 「何だこの音源の量? こんなに必要なのかよ」 「これを全部3ヶ月って終わらせろっての?」 「仕方ないだろう、顔出しする役者はいっぱいいてもバンドは基本的にうちらしかいないんだから」 「しかもコレの他に、主演の娘との練習、音あわせがあるわけだよな」 「ってか、映画撮るってこんなに手間かかるもんだったんだね」 「しかも肝心の曲ができてねぇときてるよ」 ギター、ベース、ドラム、キーボード。 それぞれの担当はそう言うと、前途多難な安定したお仕事に乾いた笑いをもらした。 9月から始まる仕事は、かなりタイトになりそうだった。
メンバー間の打ち合わせが終わり、その後予定があるというドラムとキーボードの2人が先に姿を消した後、滝川はビルの片隅に隔離されるようにあった喫煙所に、同じくヘビースモーカーのギターを誘って立ち寄った。
「ガラス張りの喫煙所ってさらし者みたいだよねぇ」
ギターの夏目龍太郎は彼独特の緩んだ口調でそうこぼしながら、咥えた煙草に火をつけた。 薄いピンク地のよれたTシャツがよく似合う夏目は、コロコロとよく代わるバンドのメンバーの中でも一番付き合いが長く、何かと言っては一緒にいることが多かった。 「本当に年々肩身が狭くなってしゃぁないなぁ」 「晒し者になっても、悪者呼ばわりされても止められるもんじゃないけどね」 「まったくね」 「無害な煙草とか発明してくれるといいんだけどなぁ」 「そんなんできたらノーベル賞ものだな。でも、まぁ味が違えば結局吸われないけど。リュウだってそうだろ?ここ数年、相変わらずその変な煙草一筋なんだし」 自身はマルボロ・メンソールと、ごく一般的な煙草を吸いながら、その脇から流れてくる甘いような独特の香りのする煙に滝川が苦笑すると、" リュウ " と呼ばれた夏目は目を細め、わざと滝川に煙を吹きかけ笑った。 「この煙草の匂いと、今使っている石鹸の匂い、それから俺の体臭が混じった匂いが好きだから仕方がないのですよ。自分に一番似合う匂いだし?」 「匂いで決めてんのかい」 「そうだよ。加齢臭がしたら変えるだろうけど、それまではコレで粘る」 「加齢臭・・・・・」 嫌そうに顔を顰める滝川に、夏目はごくあっさりと断言した。 「俺今年の6月で30になったしね。そろそろ心配。でも、ノリオだって1月には30の大台に乗るんだから人事じゃありませんからね?」 「・・・・」 「ロックな君に健康のための禁酒・禁煙なんて無粋なことは言いませんが、自分の年はそれなりにわきまえないと」 夏目はそう言うと斜に構えた姿勢のまま穏やかに微笑み、まだ半分も吸っていない煙草を灰皿に押し付けた。
伏目がちの目元に浮かべられる、細い微笑み。 崩した姿勢と相反するような、しなやかな筋肉が潜められているだろう細いシルエット。
歳を得るにしたがって抜けていく青臭さの代わりに、夏目は乾いた色気を纏うようになっていた。 それは時々男でもどきりとさせられる程艶っぽい。 どこかの誰かさんのように、万人を平伏させるような圧倒的な魅力ではなく、注意深く観察しないと見逃してしまうような儚い魅力ではあるのだけれど、これがきちんとアピールできれば、今の倍はファンを確保できるだろうに、と、滝川はその様子を横目に、皮肉げに口の端を吊り上げた。 ソフトな人当たり、一見して日和見で、温和な性格。 ただし他人と合わせようと頑張らず、独特の自分のペースと美意識を崩さない夏目は、ギタリストの腕は一級品であったが、とにかく目立ちたがり屋が多いバンドの中でぱっと見地味だった。 ある種人気商売であるこの仕事には致命的だ。 お陰で横から評価をかっさらわれ、夏目は損をすることも多かった。 ただ、聞くものが聞けばわかる音感の良さに、昔から玄人ウケは良かった。 滝川も初めは夏目の音に惚れ込み、友人を介して無理やり連絡を漕ぎ着けた経緯があった。 同い年であるという事から親しくなり、何度かセッションを繰り返すうちに特に仲が良くなり、数年前から一緒にバンドを組むことになってからは仕事仲間、飲み友達として付き合いが深い。 「ノリオはこの後どうするの?」 「ん? 特に予定はないから、久し振りに渋谷にでも行こうかなって思ってた」 「ああ、例の事務所?」 お陰で夏目と滝川は互いが持っている副業を知り合っていた。 「それじゃぁ、俺も一緒に渋谷に行こうかな」 「何だ?幽霊でも見たか?」 滝川が茶化すと夏目はごく真面目に首を横に振った。 「生憎そういった話題は提供できないなぁ。何、今投資しているチェーン店の支店が渋谷にあるんだ。暇があったらどんな状況か実際に見たいと思っていたから・・・・良かったら、夜にまた待ち合わせして一緒に飯でも食おう?」 拝み屋を副業にしている滝川に、投資を副業にしている夏目。 どちらも無関係の人間から見れば絵空事のような職業なのだが、互いにそうした仕事を実際にしているのだから世の中は広い。 滝川は苦笑しながら頷き、夏目と共に渋谷に向かった。 そうして渋谷駅前交差点の殺人的な人ゴミを抜けたらそれぞれに分かれ、滝川は事務所に向かうべく道玄坂に向かおうと考えていたのだが、その予定はばったり顔を合わせた少女の出現で実現はしなかった。
「麻衣!」
怒ったような怖い顔をして、猛然と駅に向かう麻衣に、滝川はすれ違い様慌ててその腕を掴んだ。 ぐん、と、勢いよく腕を取られ、それまで滝川の存在に気がついてなかった麻衣は虚をつかれて滝川を軸にぐるんと180度回転した。 そうしてぼすんと滝川に体当たりして、麻衣はようやく滝川に気がつき、呆然と見上げるとその名を呼んだ。
「ぼーさん?」 「おうよ。今日はもう終わりか?」 「え?あ、あぁ・・・えっと」 「久し振りに顔出そうと思って来たんだけど、すれ違いになっちまう所だったな」
ラッキー。 と、滝川が相好を崩すと、その瞬間、大きな鳶色の瞳が一気に潤み、つっと麻衣の頬に涙が伝った。
「麻衣?」 「うっ・・・え・・・・」 「おいおいおいおいおい!ちょっと待った!?何してんの?何で泣くんだよ?!」
狼狽する滝川を他所に、麻衣はそのまま滝川の胸に飛び込んで、まるで子供のようにがっちりとしがみ付いて本格的に泣き始めた。
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