人目も憚らず号泣する麻衣に、滝川はとりあえず事務所に行こうと促したが、麻衣はそれを頑なに拒否した。それはつまりこの号泣の原因がまず間違いなく黒衣の御仁であることを指している。

難しくもない推理に、滝川はひくりとこめかみを強張らせた。

 

    

  

      

 

  

  

 Coffee
時々苦い

  

 

   

   

  

「とりあえず、このままここで世間様の目に晒されているのも辛いから、近くの喫茶店でも入らない?」

 

 

麻衣の登場ですっかりその存在を忘れていた夏目に言われ、滝川は我に返った。

往来の激しい渋谷道元坂手前。

見れば、面白がるような、もしくは非難するような視線が背中に痛い。

滝川は麻衣の肩を抱いてその視線をかわしつつ、そう言いながらも2人のことなどお構いなしに路地に入っていく夏目に、追いすがるようにしてついて行った。

夏目は人目を避けるようにいくつかの路地を抜けると、雑居ビルの2階に隠れるように開いていたこじんまりとしたコーヒーショップに2人を案内した。

一見して個人経営と分かるそのコーヒーショップには店主の他は客の姿もなく、閑散としていた。

その中でも一番奥まった4人がけの席につくと、夏目は慣れた調子でアメリカンとアイスコーヒーを注文し、その次いでに店主と何がしかの話をし、水色のハンドタオルを手に席に帰ってきた。

「はい、麻衣ちゃん」

「?」

「顔が大変なことになっているからねぇ、これで拭くといいよ」

そう言って夏目はタオルを麻衣に差し出した。

相変わらずの気の抜けた夏目の口調に毒気を抜かれた麻衣が顔を上げると、夏目は気安い笑みを浮かべていた。その様子に麻衣はさらに混乱し首を傾げつつ、おずおずと口を開いた。

「あの・・・・私、お会いしたことありましたっけ?」

「え?」

「いえ、あの、名前・・・・」

戸惑う麻衣に夏目は柔らかく微笑んだ。

「さっきノリオがそう呼んでたから」 

「え?あ・・・・・そうですよね。あの、タオルありがとうございます。お借りします」

タオルを受け取り、丁寧に頭を下げつつ、誰?と顔に書いて滝川を見つめる麻衣に、滝川は面映いような表情を浮かべて2人を見比べ、ぽりぽりと頭を掻いた。

「麻衣、こっちは今一緒にバンドの仕事をしている夏目龍太郎。さっきまで一緒に仕事してたんだ。リュゥ、こっちはご指摘通り、俺の副業の方での知り合いで、谷山麻衣」

滝川の説明に麻衣は今更ながら自分が晒した醜態に思い至り、顔を真っ赤にして謝罪した。

その様子に夏目は苦笑しつつ首を横に振った。

「お噂はかねがね」

「へ?」

「ノリオはよく君のこと喋るんだよ。麻衣ちゃんってアレでしょう?ノリオの大事な一人娘」

抑揚のない夏目の口調に誤魔化されそうになりながらも、慌てる滝川の様子に我に返った麻衣は力いっぱい滝川の肩を掴んだ。

「・・・・って、ぼーさん!何喋ってんのよ?」

「いや・・・・大したこと話してない・・・と」

「本当に?」

後ろ暗い所でもあるのか、俄然焦りだした麻衣に夏目はゆったりと微笑んだ。

「楽しい話ばっかりだよ?」

「ぼーさん!!!!」

悲鳴のような麻衣の声に慌てて視線をそらした滝川を見比べ、夏目は微笑ましそうに頬杖をついた。

「いや、良かった。俺はてっきりノリオの妄想かと思っていたんだけど、本気で仲がいいみたいだ」

「え?」

「だってノリオが女子大生と仲良しなんて中々信じられなくてぇ」

「はぁぁ?妄想って何だよ?!お前、そんな目で俺を見てたの?」

静かな店内に響き渡る大声で抗議する滝川に、夏目は悪びれもせずに頷いた。

「だからね? 一回会ってみたいって思っていたんだ」

やんわりと笑みを浮かべる夏目のペースに乗せられて、頬をぬらしていた涙もいつの間にか渇き、麻衣は照れくさそうに微笑んだ。

  

 

 

 

 

「 " 所長 "  が来月からイギリスに帰国するんだって 」

 

 

 

 

 

幾分落ち着きを取り戻したところで、麻衣は夏目を憚りつつも事の次第を口にした。 

" 所長 " と銘打ったところに含みを感じて、滝川は驚きの言葉を飲み込み、あえて淡々と熱のない口調で尋ねた。

「いつまで?」

「年内いっぱい」

「するってぇと・・・4ヶ月ってところか・・・大学がらみ?それとも研究所がらみとか?」

「知らない」

ぷくりと頬を膨らませながら、麻衣はつっけんどんに答えた。

その態度に滝川は眉を上げつつ首を傾げた。

「その間事務所はどうするんだ? また森嬢が所長代理?」

「今回まどかさんは来ないって。ただ、今はコンスタントにデータを集めている案件があるから、リンさんが残って事務所は一応開けるみたい。調査とかは受けられないけど」

「ふぅん・・・・じゃ、麻衣はバイト継続できるってわけか」

「そうだね」

「永住じゃなくて良かったな」

軽口に交えて、ごくさらりと怖いことを言うと、麻衣の肩がぴくりと震えた。

その僅かな変化を見逃さず、じっと麻衣を見つめていると、麻衣は居心地悪そうに視線を泳がせ、それから根負けしたように強張っていた目元を緩めて滝川を見上げた。

「4ヶ月だけ。前より短いくらいだもん。良かったと思うよ?」 

「だ、な」

「でも、前と今じゃ状況が違うのに・・・・私、本気で本当に知らなかったんだよね。この話」

「どういうことだ?」

滝川の質問に麻衣は大きくため息をつき、借りたタオルでごしごしと顔を拭いながら言い放った。

「この話って実は随分前に決まっていたことみたいなんだよね」

「へぇ」

「それなのに、私がこの話を知ったのって今日。しかも事務所の応接室で安原さんとお茶していたら、所長室から出てきた所長様から、そう言えばって感じに教えられたの」  

  

 

 

 

 

 

普段通りに 「麻衣、お茶」 と注文をつけるのと同じ口調でナルは帰国の件を口にした。

その平素と全く変わらない、あまりの冷静さに麻衣はとっさにナルが言ったことの重大さが認識できなかった。

同席した安原が帰国の期間やその間の事務所のことなど帰国の詳細をそつなく聞き出し、そうですか、そうですね。となってから麻衣はようやく我に返り、真っ青な顔でナルを問い質した。

なぜ、そんな大切なことを今の今まで黙っていたのか。 

なぜ、一言でいいから自分に教えてはくれなかったのか。

対して、ナルの返答は一言だった。

 

 

 

  

「今伝えた。聞き逃したのなら、それは自己責任だろう」 

 

 

 

 

あまりに見事過ぎる言い分に太い血管が切れた。

文句を言う声はボリュームアップしていき、資料室に篭っていたリンが驚いて顔を出したほどだった。

そうやって麻衣が不平不満をがなり立てても、対するナルはそれこそ一方的に麻衣を非難するように顔を顰め、話にならないとでも言いたいのか、弁明すらすることなく、億劫そうにため息を一つ落とすと所長室に引き返し、中から鍵をかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、麻衣は切れて早退してきた・・・・・というところか」

ため息交じりの滝川の指摘に麻衣は、あうぅぅと情けない声を上げてテーブルにつっぷした。

「だって・・・・」

「まぁ、麻衣が怒るのもムリねぇとは思うけどな」

「そうでしょう?!」

滝川の言葉尻に乗って麻衣はがばりと顔を上げると、鳶色の瞳いっぱいに涙をためて訴えた。

「だってあれは言い出しずらくて言わなかったとか、そういう雰囲気じゃなかったよ?絶対にこの帰国は大したことないって判断して、仕事に支障がでないギリギリの日程で言ったんだよ」

「あ〜〜、まぁ・・・・なぁ、そうかもしんないケド」

「絶対にそうだよ!あのバカは半年ぐらいの帰国なんて大したことない。何も問題はないって心底そう思ってんの!それでガタガタ言う人間はそっちが悪いと思ってて・・・私がこうして動揺してんのもバカだって思ってて、自分は一個も悪いなんて思わなくて・・・」

再びポロポロと大粒の涙が零れる。

その光景は特別に撮影された写真のように鮮やに瑞々しく、胸を潰してしまいそうだった。

滝川が思わず麻衣の頭に手を伸ばし、慰めるようにその髪をすいてやると、麻衣は俯き、唸るようにしてぐずぐずと泣きながらも、腹立たしそうに言い訳した。

「でも、それでも、教えてくれる時間なんていっぱいあったんだから・・・・」

「そうだな、それはナル坊が悪いな」

「そうでしょうぅ」

「んでも、ナルだしなぁ」

滝川の自嘲気味なため息に麻衣はぶんぶんと勢いよく頭を振った。

「・・・・・分かってるんだよ」

「ん?」

「ナルに悪意がないことなんて分かってる」

「ん〜」

「ナルがそう決めたんだから、本当に必要なんだって思う。そうして決めたイギリス行きのを止める理由なんてないよ。そんなの、いくらおバカな私だって分かってるよ」

無言の内に滝川が同意すると、麻衣は堪え切れないといったように声を荒げた。

「でも、そうやって分かっちゃっうからって我慢するのが一番悔しいの!」

 

 

  

もっともだ。

もっとも過ぎて、あまりに哀れだ。

  

 

  

思わず言葉をなくした滝川につられるように落ちた沈黙の中、それまで影を潜めて麻衣と滝川の話を聞いていた夏目は、いつもの力の抜けた口調で突然質問をしてきた。

「ナルって、ノリオがお世話になっている心霊事務所の所長のあだ名?」

何も今話しかけないでもいいだろうと、滝川は視線で制したが、それを何と思ったのか夏目は声を立てずに笑顔を作り、麻衣の話を要約した。

「で、谷山さんはそこのアルバイトなんだよね? 詳しくはそう分からないけど、そのバイト先の所長がしばらく海外に行くってことなんでしょう?」

面倒だと顔に書きながらも滝川が頷くと、夏目は首を傾げた。

 

「どうしてそれがそんなにショックなの?」

 

「え?」

思いもよらない夏目の質問に思わず麻衣が顔を上げた。

その顔を正面から見据えつつ、夏目はさらに重ねた。

「だって、聞けば単なる業務連絡じゃない。何をそんなに動揺してるの?」

夏目の質問に麻衣は答えを見失い、口にものが詰まったように顔を歪めた。

その表情に夏目は浮かべていた笑みを深くし、申し訳なさそうに肩を竦めた。

「ごめん、意地悪な言い方だったねぇ」

「え?」

そうして夏目はミステリの謎解きをするように、すらすらと暗喩を指摘した。

「その所長と谷山さんはお付き合いしてるんでしょう?もしくはそれなりに仲がいい。だからこんな言われ方をしてこんなにショックを受けた。そんなトコロでしょう?」

否定しない2人を見渡し、夏目は満足そうに微笑んだ。

「確かに彼氏とかだったらあんまりにも冷たい言い方だもんねぇ。4ヶ月も超遠距離恋愛ってことになるってことじゃん。それを仕事だからって、そんな説明だけで" 分かっている "って納得できるのはエライと思うよ。正直、俺なんかはそんな言われ方で何で我慢できるのか分からない」

夏目はそう言うと、テーブルに顔を伏せた麻衣を覗き込むように顔を近づけ、目を細めた。

言い当てられた内容と、突然顔を至近距離に寄せられたことで、麻衣の顔は発火したようにぽんと赤くなった。それに夏目は調子ずき、さらにぐっと顔を落として麻衣を見つめ、甘く囁くように問いかけた。

 

「当たり?」

 

次の瞬間。

夏目の頭は滝川の右手で乱暴に押しのけられ、もう一方の麻衣は空いた左手によって勢いよく逆方向に引き寄せられて、鋭い声がその場を制した。

 

 

「顔、近過ぎ!」

 

 

存外に厳しい、殺気を孕んだ滝川の声に、夏目は目を丸くし、麻衣は火照った顔をさらに真っ赤に染めた。

その麻衣の頭を自身の肩口に引き寄せつつ、滝川は胡散臭そうに顔を顰め、猫を払うようにしっしと夏目に掌を返した。その態度に夏目はそれこそ猫のように目を細め、小さく笑った。

  

  

   

   

  

 

   

   

その日、問題の御仁がいるマンションには帰りたくないと、麻衣は母親代わりの綾子に連絡をつけ、そのまま綾子の家に泊まることになった。

そこで滝川と夏目は揃って渋谷駅まで戻り、迷惑をかけたと恐縮する麻衣を改札口まで見送った。

 

「泣き顔のかわいい子だねぇ」

 

ひらひらと気だるげに手を振りながら呟く夏目に、滝川は不服そうに眉間に皺を寄せ、分かっちゃいないと首を横に振った。

 

「笑ってる顔のが3倍かわいいよ」

 

その言い分に夏目は声を立てずに笑い、ぽんぽんと滝川の肩を叩いた。

「そんな可愛い子なのに、彼氏はかなりイヤな男だね」

「ん〜・・・・まぁ、そういう女心とかを分かってやるようなヤツじゃないんだよねぇ」

「谷山さんも何でそんな男と付き合ってんの?」

「好きだからだろう」

「・・・・・即答だねぇ」

「まぁ・・・ね」

「それにしてもだ。優しくないにも程がある」

  

――― でも、ナルだし。

 

天下無敵の言い訳に滝川が苦笑すると、夏目は意外そうに目を丸くし、それから愉快そうに口の端を吊り上げた。

 

 

「可哀想だから、ノリオが攫ってあげたら?」 

 

 

夏目の提案に滝川は片眉を上げ、たっぷりと時間をかけ、含みを持たせて微笑んだ。 

否定を意味するそれに、夏目は不服そうに唇を尖らせ、栗色の髪をした少女が向かったであろうホームを見上げた。