こめかみの辺りが熱を持ったように痺れ、頭のてっぺんがずくずくと痛む。

全身が油っぽくて、吐く息は我ながら気絶しそうに生臭い。

馴染み深いその感触が指し示す結論はただ一つ。

 

 

二日酔い。

 

  

ため息だけでは受け入れ難いその現実に、

滝川はうんざりしながら一度開きかけた瞼を落とした。      

  

   

  

      

 

  

  

 Water
喉を潤し、頭を冷やすもの

  

 

   

   

  

   

翌日に残った酒は全身の神経を鈍らせ、澱んだ泥を飲ませたような重苦しい不快感を与える。

そしてそれは薬を飲もうが何をしようが根本的に解消されることはなく、ただ時間が過ぎ行くことをじっと耐えて待つしかないという最低な対応を必要とする。

そこに生じるは絶望的かつ圧倒的な不快感。

それを味わう度に思うし、反省もする。

 

 

もう二度と酒なんか飲むものか、と。

 

 

しかしそこまで分かっていながらも、その戒めは日を跨げばいとも簡単にゆるくなり、次の酒の席まで持ち越されることは皆無に等しい。

百薬の長たる酒は、それをおしても欲しくなるほど美味だ。

そうしてついついその場の勢いに任せて身に過ぎた酒をあおり、こうして翌日に酒を残すのだ。

滝川はじっと我慢の子でベッドにつっぷしていたが、ひりつくような喉の渇きに耐えかねて、渋々その身を起こした。反動でただでさえ重い頭がガンガンと割れ鐘のように痛んだ。

滝川はぎゅっと眉間に皺を寄せ、よろよろと立ち上がると、覚束ない足取りでキッチンに向かった。

 

 

 

とある事情から、滝川はオフィスビル12階のワンフロアを無償で借り受け、住居にしていた。

元々事務所だったものをそのまま転用しているので、住居らしい造りはしておらず、だだっぴろいフロアには事務的で無愛想な柱が4本、それに元給湯室の小さなキッチン、シャワーカーテンで仕切られただけの風呂場、仕切りのないベッドスペースがあるだけで、一見すると寂しい程にがらんとしている。しかし窓からの眺望は素晴らしく、人一人が住むには十分過ぎるほどのスペースが確保されているので、小さなことを気にしなければ住みよい部屋だった。

滝川はふらふらしながら部屋を横切り、苦心してキッチンにたどり着くと、乱暴にグラスに氷を入れ、ミネラルウォーターを注ぎ、一気に飲み干した。

ごくりと喉が鳴る。

その直後にげふっとゲップが出て、胃液が腐ったような匂いが辺り充満した。滝川は顔を顰めながらそれを払い、二杯目の水をグラスに注いだ。

そうしてようやく一息ついた時、滝川の背後からか細い声がかかった。

  

「ぼーさん」 

 

振り返りつつ視線を下げると、そこには真っ白な小さい猫がちょこんと床に座り込んで、呆れたような顔で滝川を見上げていた。

 

「おぅ、梅吉」

「いっつも朝になって後悔するくせに、また飲み過ぎたんでしょう」

「・・・・」

「どうしてそういうことばっかりするのかなぁ。人間の考えることってよく分からない」

 

猫の発するもっともな疑問に、滝川は苦笑しながら膝を折り、その場にぺたりと座り込んだ。

梅吉と呼ばれた猫は滝川の足元に擦り寄って、甘えるようにその足に頭をつけた。突き出された顎を擦ってやれば猫らしくゴロゴロと喉を鳴らし、小さな体を心地良さそうに伸ばす。

その愛らしい様子に滝川は目元を緩め、ふっと大きくため息をついた。

盛夏の東京は朝も早くから暴力的な陽射しに焼かれ、フローリングの床すら温い。

  

「一緒に風呂にでも入るか」

  

滝川の提案に梅吉は嬉しそうに尻尾を振った。

それを横目に滝川はテーブルの外れに落ちていたクーラーのリモコンを拾うと、環境に優しくない温度でスイッチを入れ、その足で部屋の隅に設置したバスタブにぬるい湯を張った。

もらい物の旧型のクーラーが大仰な音を立てながら動きだし、ようやっとの思いで冷たい風を室内に送り出すようになった頃には、小さな備え付けのバスタブには十分にお湯がたまり、その湯に滝川は梅吉とともにざぶりとつかった。

水温の低い湯がじわじわと体に浸透していき、とても気分がいい。

 

「ふぅぅっく・・・・・くくく」 

 

思わずオヤジ臭い大きなため息をつくと、それに倣うように梅吉は湯船の中であくびをした。

 

 

 

 

 

 

猫のくせに風呂が好きな梅吉は、これもまたとある事情で寺から譲り受けた少し変わった猫だった。

尻尾の長い、真っ白なこの猫は大変に人間臭く、常に人間に話しかけている。

そうしてその会話が滝川には理解することができた。

それが何故かとは痛む頭では考えたくもないし、大したことではない。

ようは気が合うか合わないかの問題で、滝川と梅吉はそう言う意味では大変気が合う者同士だった。

滝川はがしがしと乱暴な手つきで梅吉を洗い、それから自身も頭ごと湯船につかって、ほとんど温度のない湯の中に色素の薄い髪をつけた。

ピチャリ・・・と響く薄い水音に耳をすませ、滝川が目を瞑ると、すぐ横から心配そうな声がかかった。

 

「どうしたの、ぼーさん? 元気ないね」

 

不安そうなその声に滝川は瞼を開けずに苦笑した。

 

「・・・・・・そりゃ、二日酔いで元気溌剌ってわけにはいかないよ」

「ん・・・それはそうなんだけど」

「何だ?」

「それだけじゃなくて、何だかしょんぼりしているみたいだから」

 

今にも泣き出しそうな梅吉の声に、そうか?と、言葉を濁しながら、滝川はそれと悟られないように薄く笑い、胸につかえていたむかつきの本当の原因を頭の隅に追いやった。

とても人間臭いこの猫は、何年経っても無垢で、邪気がなく、それでいて聡く、誤魔化しがきかない。

―――― 麻衣みたいだな。

滝川はそう一人ごちると、酒で誤魔化した安原の追及を思い出し、ごぼり・・・と、音を立てて湯船の中に顔を沈めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

SPRの面々と初めて出会った頃、滝川は既に二十代半ばで、麻衣はまだ16歳の女子高生だった。

笑えばかわいいが、さして気になるほどの美人でもなければ、タイプというわけでもない。

それに何より歳が違い過ぎていて、ロリコンの気がなかった滝川にとって、その時の麻衣は自分を取り巻いていた、バンドのファンだという女の子達と大差は無かった。

その内、麻衣の家庭環境を知り、幾多の困難を一緒に乗り越えていくうちに、子の親になどなったことはないけれど、麻衣に父親代わりのような愛着を感じるようになり、特に庇護してやろうという意識が強くなったのは事実だ。

そうして麻衣は次第に滝川の中で不特定多数の女の子から、親密な女の子に昇格していき、滝川は何くれとなく麻衣を可愛がり、そんな滝川に麻衣もよく懐いた。

 

まるでままごとだ。

 

時に自嘲を込めてそう思うことがあったけれど、そんな自分を滝川は決して嫌いではなかった。

麻衣にセクシャルな女を求めることはなく、また麻衣もそれを意識させることはなかった。

それが時に女と付き合うもろもろを面倒と感じてしまう滝川の性分にはよく合っていた。

だからこそ麻衣がナルに気があると分かった時も、難儀な男を好きになったものだと呆れはしたが、嫉妬したり、横槍を入れてやろうという気は全くなかった。

断言してもいい。

そこに嘘偽りは一切存在しない。

本気で困窮するようなことがあれば、嫁にもらってやってもいいと思えるほど麻衣は気に入っている。

でも、それは恋愛感情ではなく、あくまで家族愛の延長から生まれた発想だった。

  

  

 

「つかさ、でももへったくれもねぇんだよ!それが全部だっつうの!!!!」

   

 

 

突然発した滝川の大声に、湯船の中でうとうとしていた梅吉が驚いて滝川の腕に爪を立てた。

その痛みに滝川は我に返り、不愉快そうに咳を繰り返す梅息を湯船の外に放してやりながら、へちゃりと、バスタブの淵に額を押し付けた。

『 水田の奥さん 』

そう言って意味深に笑っていた安原の喰えない笑顔が脳裏を掠めた。 

 

 

 

「ありえねぇよ」

 

  

 

滝川は冷たいバスタブに額を押し付けたまま、低い声で脳裏に浮かぶ笑顔を否定した。

時にはまるで本気で恋をしているように、麻衣に執着しているように振舞っている。

でもそれはあくまでポーズだ。

誰も信じないだろうが、本心5割に、演技が5割、実際はそんなものだ。

 

照れながらも幸せそうに笑う麻衣。

無関心を装いながらも、明らかに不愉快そうなオーラを発するナル。

それを指差し笑う気のいい仲間達。

 

その関係が好きなのだ。

だからこそ、すすんで道化も演じられる。

胸の痛みは父性のそれだ。 

迫真の演技が天才安原の眼も曇らせたのだろう。いや、それよりもむしろ、ただからかわれただけの可能性の方が高い。なんと言っても相手はあの越後屋だ。油断はできない。  

自身の論理に納得し、滝川は湯船の中で大きく頷き、呟いた。

  

 

  

 

「それによぉ、仮におめぇさんの言う通りだったとして、一体それが何の役に立つっつぅんだよ、少年」

 

 

 

 

信じられないような幸福は既にここに存在している。

それを邪魔するような事実は何一ついらない。

 

 

  

 

 

そうして滝川はざぶりと音を立て、再度湯船の中に体を沈めた。