梅雨も明け、世間は盛夏を享受する8月になったというのに、滝川法生の自慢の話題は未だ先月の愛しい娘の誕生日に、娘とデートしたことだった。      

  

   

  

      

 

  

  

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少し、偽りのにおいがする

  

 

   

   

  

   

何が愉快かと言えば、娘の男を多方面から出し抜いたこと

 

 

 

仮にも彼女である麻衣の誕生日をすっかり忘れていたナルに対して、滝川は面当てのように愛しい娘のために完璧なデートコースをセッティングし、誕生日当日、鮮やかに麻衣をかっさらった。

甲斐性のない彼氏のために誕生日当日の予定の立たなかった麻衣は、それだけで大喜びしたのだが、滝川はそれだけでは終わらせようとはせず、デートを満喫した後に、問題の彼氏、ナルに麻衣を迎えに来させようと呼び出した。

 

冷酷無比。

厚顔不遜。

威風堂々。

独立独歩。

 

威猛々しい四字熟語がよく似合うその男だったが、流石に色々と思うところもあったのだろう。

平素であればせせ笑い、完全に無視するであろう滝川からのコールをナルは不承不承ながらも受け、その事実に怯えて、すっかり挙動不審になっていた麻衣を迎えに来た。

あの "ナル" が、 "麻衣" を迎えに、滝川の呼び出しに応じたのだ。

その普段の行いから鑑みれば破格と言える彼の反応に、滝川は有頂天になった。

 

 

 

 

 

「 なんつうの?ナル坊もかわいいとこあるじゃねぇと思ったわけよ 」

 

 

 

 

 

大人視点の余裕を見せられた滝川は得意になって2人の関係者に事の顛末を吹聴して回った。

関係者も初めは面白がってその話を滝川から聞き出しては、一緒になって麻衣をからかい、ナルを笑った。が、それも二度三度と続くと、背後から迫り来るブリザードも怖いし、いい加減飽きてきて最後には誰も滝川の相手をしなくなった。 

「話題が古過ぎるのよ、貧乏性!」   

綾子などはそう言ってばっさりと滝川の愚考を断罪したのだが、そうとは分かっても滝川の口は早々大人しくなりはしなかった。 

   

 

安原は奢られた酒を飲みながら、もう幾度目かと数えることができないほど聞かされ、既に耳にタコができたその話を飲み代代わりに聞いた。

暗誦できるほど麻衣の誕生日の詳細はよく知っているのだが、滝川はここがいい所だと言わんばかにり熱心に呼び出したナルの様子を語り、最後に麻衣から抱きつかれて感謝されたことを話すとご満悦と顔に書いたように微笑み、お猪口に残った日本酒を一息にあおった。

酔いは十分に回っているらしく、広く開いた襟元からはすっかり赤くなった肌が見える。

無駄な贅肉のついていない男らしい骨格が窺える鎖骨、骨ばった大きな手、愛嬌のある顔立ち。

それらのことを一通り眺め直してから、安原はくすりと、小さく苦笑した。

同性から見ても、そしておそらく異性から見ても、滝川は魅力ある男だ。

特に付き合いが深くなればなるほど分かる、その包容力の大きさは少しオヤジ臭い嫌いはあるものの、父性不在と呼ばれる世の中において、大変貴重で価値あるものだろう。

そして実際に滝川はそこそこモテていた。

バンド関係、拝み屋関係に関わらず、滝川に何とか接近しようと腐心する女性の影を、安原はそれと知るだけでも4人知っていた。

なのに、当人の最大の関心事は愛しい娘に集中しているのだ。

親バカと言ってしまえばそれまでだが、越後屋と異名を取る聡い安原がそれにカモフラージュされている淡い気配に気がつかないはずはない。

安原は空になった滝川のお猪口に酒を注ぎながら、ふと、思い出した小説の一節を諳んじてみせた。

 

 

「 『水田の奥さん、っていうとき、門倉さんの顔、違うんですよ』 」

 

 

突然脈絡のないことを言い出した安原に、滝川は明らかに不審そうな表情を浮かべ、探るように万年笑顔のくえない弟分の顔を覗き込んだ。

「なんだそりゃ?」

「向田邦子の名作 『 あ・うん 』の一節です」

「ムコウダクニコ?」

明らかに知らないだろう滝川の語調に安原は目をさらに細め、笑みを深くした。

「 『 寺内勘太郎一家 』 とか 『 阿修羅のごとく 』 の方がポピュラーですかね? 人情系の家族物語を書かせたら天下一品の放送作家さんです。素晴らしい小説家さんでもありますけどね。その作品の中で、僕、『 あ・うん 』 が一番好きなんです」

安原はにこにこと笑いながら、食べかけのほっけに箸を伸ばし、ほぐし身を口に運びつつ話題に出した話のあらましを語った。

「太平洋戦争前の日本のある家庭の話なんですけど、つましいサラリーマンの水田と、景気のいい会社社長の門倉って男が主人公なんです。2人は本当に仲のいい男友達で、タイトルはその様を神社の鳥居にある阿吽の狛犬になぞらえているんです」

「知らねぇなぁ」

気のない滝川の返事にもめげることなく、安原はにこにこと微笑み話を続けた。

「どちらも妻帯者で、水田の方には十六のお嬢さんもいるような世代なんですけどね、この門倉はずっと水田の奥さん・・・・・名前なんだったかな? あ、そうそうタミ! このタミのことが密かに好きなんですよ」

「昼ドラ定番の不倫話かい」

揶揄するように口元をゆがめる滝川に、食べきってしまいますよ?と、尋ねてから、安原は最後に残ったほっけの身を口に運びつつ首を横に振った。 

「いいえ、親友の奥さんだから、秘密裏に幸せを願うだけのプラトニックです」

安原はそう言うと箸をおいて、自分のお猪口に銚子から酒を注いだ。

「門倉は親友の手前もあるんですが、好きだって口に出して言えないくらい、タミのことが好きなんですよ。その隠された恋心が素敵なんです」

「・・・・へっ」

「バタ臭いんですけど、とても親密な男同士の友情話なんですよ。そして基本はしっかり義理立てする古き良き日本って感じの間柄なんです。初読では切なくて泣けましたね。僕はそんな暑苦しいの苦手なんですけど、見てる分には本当に格好いいんですよ。地味で、必死で」

「・・・」

「親友もその細君もとても大切だから、門倉はとことんこの夫婦と家族に優しいんです」

「・・・」

「この門倉って男は優男で、しかも金持ちだから女によくモテるんです。それで奥さんの他に何人か女を囲ってするんですけど、その内の一人がある時勘違いして水田家に怒鳴り込み、タミと一悶着起こすことがあるんです。結局誤解だって分かるんですけど、その時愛人がタミに言うんですよ」

気のない素振りをしながらも、耳を大きくし、滝川の瞳の奥が歪むのを確実に捕らえながら、安原は最上級の笑みを浮かべて言った。

 

 

 

「 『 水田の奥さん、っていうとき、門倉さんの顔、違うんですよ。

     男の子が大事にしている飴玉、口の中で転がすみたいに言ってるわ 』 」

 

 

 

きっと、今のノリオとそっくりな顔なんでしょうね。とまでは言わず、安原はそこで言葉を切ると空いた銚子を振り、むっつりと黙り込んだ滝川の顔を覗き込み、朗らかに笑った。

「ノリオ」

「・・・・・・ん?」

いつもは嫌がる呼称にもそれと気がつかない滝川に、安原はころころと笑いながら品書きを薦めた。 

「お銚子空きましたけど、何か追加しますか?」

「あ・・・・ああ、好きなの頼めや」

「わぁい、ノリオ愛してる!」

ぱっと手を打つ安原に、滝川はあからさまに眉を寄せ、頬杖をついて横を向いた。

「・・・・・・やめてくれ、きしょい」

「ひどいなぁ・・・・こんなに愛しているのに」

安原はくすくす笑いながらざっと品書きを見渡し、その中央に鎮座している名前に目を止め、にっこりと微笑みながら店員を呼んだ。

 

 

 

「あ、店員さん!追加いいですか? えっとねぇ・・・・ 久保田の万寿」

 

 

 

高らかに言い放った安原のオーダーに、滝川は目を見開き、安原の手元にある品書きを掴んだ。

「はぁ?何お前突然そんなの頼んでんだよ?!」

「だぁってぇ、好きなの頼めって・・・・」

「人のおごりだと思ってからにぃぃ・・・・・せめて遠慮して千寿にしろよ!あ、注文変更ね。久保田の千寿で!!」

慌てる滝川に安原は腹の底から笑った。

その笑い声につられるように、滝川も相好を崩し、いつもの冗談めかした人好きする笑みを浮かべた。そうして滝川と安原は互いの記憶が怪しくなるまでしこたま酒を飲んだ。

互いに、得意の笑顔を持って何もかもを曖昧に濁すように。

  

 

 

 

 

けれどその笑顔の裏で、巧妙な策略家はひっそりと思っていた。

  

 

 

 

 

あ・うん のラストは如何なものだったのか、と。