調査現場の姫乃島にはこんな言い伝えがあった。

   
" 姫乃島の神、姫神様は二十歳前の生娘に憑依する
 "       

  
そこで調査途中の19歳の麻衣が憑依された。
事務所所長と付き合い始めて半年が経過しており、既にそういった関係はあるものと目していたスタッフは驚いていた。が、条件は満たしていたのだから、間違いではない。
訂正も誤魔化しもしなかった所長を責めることでもない。
けれど、あえて肯定する必要もなかったんではないか、と、麻衣はどうにも納得できなくて唇をへの字に結んだ。 

  

     

002   Keep your wind to cool your pottage. 

   

 

麻衣がナルとつきあい始めたのは、5月の連休を挟んだ調査終了後のことだった。

3月には告白らしきものをしていたことを考えると、色よい返事をもらうのに2ヶ月もかかったことになるが、それはあの御仁のことなので、返事があっただけ僥倖ということだろう。
返事を貰ったのはナルの部屋。
ナルが丸3日眠り込んでいた直後のことだった。
 

『 僕か・・・ジーンかなど尋ねない 』
  
そんな言葉が返事に代わる、胸に痛い、恋の成就だった。
しかしその後2人の関係が劇的に変化するようなことはなかった。
きっかけがそれだったから、時々ナルの部屋に麻衣が行くようになった。
部屋で一緒に食事をするようになった。
帰る間際に、キスをするようになった。 

相手があのナルなのだから、それだけ、とは言えない変化だ。
しかし相手があのナルだからこそ、それ以上は何もない。
優しい言葉も、デートも、スキンシップも。
帰り際のキスは小鳥がついばむようだった。

身体が触れない距離で、ささやかに施されるそれに、当時の麻衣は不満も疑問もなかったわけだが。 

   

  

事件はつきあい始めて3ヶ月目、夏の盛りのことだった。

 

 

その日、麻衣はバイト帰りにナルの部屋に立ち寄り、ナルと一緒に食事を済ませた後、電車で帰宅した。夜ではあったが深夜とも言えない時刻、いつもの時間。ナルのマンションから駅までの距離は普段通り人通りも多く、電車もいつも通り、駅からアパートに向かう道も普段と何も変わることはなかった。
しかしその帰り道、何気ない住宅地で、麻衣は不意に男に腕を掴まれた。
後からこの時ばかりは麻衣は自分の第六感と、バイトで鍛えた危機管理能力、対する瞬発力に感謝した。

どうして、も、誰、も、誰か、もない。
麻衣は腕を掴まれた瞬間、反射的に男を蹴った。不意をつかれて男が腕を放した隙を見逃さず、麻衣はそのまま全速力で駅に向かって走った。場違いに白々しく明るいキオスクに飛び込んで、そこで麻衣はようやく息をついた。
事態把握や恐怖心はそれからだった。
ぞくぞくとわき上がる嫌悪感と恐怖心に、ダメになったのはまず思考回路だった。
どうやって家に帰ろう。
その方法が分からなくて、麻衣はナルに電話した。
「今から行く。そこを動くな」
きっと何か一番上手な方法を指示されるだろうと思っていただけに、ナルがこう即答したことに麻衣は驚いた。そうして本当にナルが目の前に現れた時は、驚きを通り越して違う恐怖すら感じた。
「帰るぞ」
ナルは一瞬間麻衣を見つめると、ため息と共に出てきたばかりのホームに向かった。
「帰るって・・・うちアッチだよ?」
「現場に戻るのか?バカらしい。僕の部屋の方が安全」
「だってもう夜遅いし・・・」
「・・・・阿呆阿呆と思っていたが、ここまで阿呆だと気が抜けるな」
「なんだよぉソレ?!」
ぷくりと頬をふくらませた麻衣に、ナルは心底嫌そうに首を傾げた。
「夜も遅い。帰らせた僕も悪かった。今日は泊まっていけ」
「へ?」
「麻衣の狭い女性専用アパートでは僕が泊まることもできない。けれど麻衣なら僕の部屋に泊まれる」
「いや、まぁ条件的にはそうだろうけどさぁ」
「そんな顔色で今晩一人でゆっくり休めるとでも思っていたのか?」
ナルに指摘され、麻衣はギクリと初めてガラス扉にうつる自分の顔を見た。
指摘されるような顔色までは分からないが、全速力で逃げただけあって髪は振り乱れ、表情は情けないように疲れて見えた。
それでも麻衣はなにかにつけて抵抗した。
そこまでオーバーにするほどじゃない。
自分は大丈夫。
そんなの恥ずかしい。
と、しかしナルに口で勝てるわけもなく、全ての反論は麻衣の予想の斜め上に返された。

 

 

 

「・・・・・・麻衣」
「!!!!は、ふぁい」
「・・・・・今、失敗した。とか思っているんだろう?」
「ふ、ふぇ・・・」

 

 

 

そうして結局。
麻衣にベッドを明け渡し、自分はソファで休むというナルに抵抗したあげく、なぜかその晩は2人一緒に同じベッドで眠ることになった。
麻衣が初めて見たナルのベッドは、自分の煎餅布団とは比べモノにならない上質な手触りの大きなダブルベッドだった。
端っこに小さく横になって潜り込めば、ギリギリ触れ合うこともない。
だから麻衣はガッチガチに小さく固まり、ナルに盛大にため息をつかれることになった。

「見限られたものだな」
「へ、え?」
「襲われかけて真っ青になっていた女に何かするわけないだろう」
「おそっってって、そんなオーバーな。だからあたしは・・・」
「事実は受け止めろ」
「むぅっ」
「路上で捕まって痴漢で済めばいいが、その可能性は低いだろう。ラッキーだった。それだけのことだ」

「う・・・・・」
身じろぎもしないが、涙を堪えているのが分かる。
器用なのか、子どもなのか。ナルは素直過ぎる麻衣の反応に半ば呆れながら、それでもその晩は反省を促す尋問の手をゆるめた。
「素晴らしい第六感で回避できた。けれどこれは頼りになるものでもない。これからは頼らないようにすることだな」
「・・・・」
「麻衣は半人前、眠っていないと本領発揮できないからな」

「・・・・」
「今晩は起きていたのによく逃げられたな。それとも電車で眠っていたか?」 

返事はなくとも、一言一言に麻衣がどんな風に落ち込んでいき、どんな風に浮上していくかが分かる。ナルが苦笑するのを控えて待っていると、案の定少し機嫌の良くなった麻衣が鼻息荒く返事をした。
「反応だけは素晴らしい反応だったよね!うん、自分でもスゴイって思う。これもさぁ、調査で常日頃危険と隣り合わせだからできた技だよね?何も考えてないのに身体が動いていたもん!あれってさぁ、下手に考えていたら、間に合わなかったんだろうねぇ」 
電車でも寝てなかったよ?混んでて立って帰ってきたんだから。
そんなとんちんかんなことまでペラペラと喋る麻衣に、ナルは今度は心からため息をつき、飴色の頭を小突いた。
「もう寝ろ」

「・・・・・・ふあい」
触れられるとびくりと震えてしまって、麻衣にはそれもまた恥ずかしくて、布団の中にまでしっかりと顔を埋めた。
鼻先にふれたリネンからはふわふわといい香りがした。
誰が洗濯しているんだろう?ナル?まさか、リンさん?
ふと浮かんだ疑問に麻衣が吹き出しかけながら、こんな夜にこんな風に笑えることにほっとため息が漏れた。
ラッキーだった。
確かにその通りだろう。でも、それだけじゃない。

「ありがとう、ナル」
「・・・・もう眠れ」

そうしてその晩、この2人は初めて同じベッドで眠った。
  

 

夏の盛りのこの事件があってから、なし崩し的に麻衣はナルの家に泊まるようになった。
バイト帰りにマンションによればおのずと帰りは遅くなり、遅くなった帰り道をナルが送るのを面倒がったのがその主な原因だったのだが、大概ナルは夜更かしで朝が早く、麻衣が起きている間にベッドにいることはない、それが麻衣のハードルを低くしたのもまた事実だった。
ごく希に、一緒にベッドに入った。
そうなると寝る前にキスをした。
ベッドの中のキスは別れ際のキスより深くなった。
麻衣はしばしそれに戸惑ったが、ベッドにいる限りナルは本を持たずに側にいるメリットに負け、その内にそのキスにも慣れた。
慣れてしまえばベッド以外でのキスも深くなった。

しがみつけば抱きしめられるようになった。
そうして眠る。
むせるような幸福感。
しばらくの間、麻衣はその感情に舞い上がったふりをして、側にいる、名前のつけられない不安定な感情には気が付かないふりをした。
そうしているうちに季節は秋を迎えた。 

    

    

 
*注 既出中篇 「闇色の世界」 参照