食事を終えた後、ナルはそのまま宿泊するよう手配した。
2人でチェックインするのがただただ恥ずかしかった麻衣は頑固に反対したが、例のごとく舌戦でナルに勝てるはずもない。いつの間にかいつものごとく言いくるめられた。
「沈黙は金なり。とか?」
普段お目にかかることのない豪華なホテルのバスルームにはしゃいで、隅から隅まで存分に堪能してから部屋に戻ると、珍しい事にナルの機嫌が良くなっていた。
諺を尋ねられ、麻衣が適当なものを答えると満足したらしく、そのまませっつかれる前に自身もバスルームに向かった。
麻衣は首を傾げつつも部屋を探索し、飲みかけのワイングラスに気が付いた。
食事の際にボトルで注文したが飲みきれなくて部屋に持ち込んだ白ワインは、まだ3分の1程残っていた。麻衣はグラスに残ったワインをぺろりと舐めてみた。
アルコールに弱い上、飲み慣れていない舌にそれは苦いばかりでちっとも美味しくない。
かろうじて以前綾子に飲まされた赤ワインやテキーラよりは飲みやすいといった程度だ。
綾子もぼーさんもリンさんも安原さんも、意外なことにジョンもお酒が好きだ。そうしてナルまでも、いつの間にかアルコールを嗜むようになっていた。
同い年の真砂子が同じようにアルコールは苦手のようなので、一人きりの疎外感こそ感じないが、これを美味しいと飲みたがる感覚が麻衣には信じられない。
それが子どもっぽいということのようで、麻衣には少々面白くない。
意地みたいにして、無理矢理グラス一杯の白ワインを飲んでみた。
ワインなんて苦くて、酸っぱくて、ビリビリして、臭いだけ。それでもこれで大人ってものに仲間入りできるなら、我慢もしてみたい。
無理矢理飲み下して涙目になりながら、麻衣は空になったグラスに慣れない手つきで次を注いだ。
「酔うぞ」
「酔っぱらってみたいんだもん」
「日本人はアルコール消化酵素がないタイプがいる。その場合は酔うといっても同時に体調が悪くなることがあるが」
「え?!そんなのイヤ。損じゃん!」
「嫌がっても仕方がない」
シャワーを終えたナルはそう言うと、麻衣の手からワイングラスを取り上げた。安々とワインを飲み下す姿を見上げ、麻衣は頬をぷくりとふくらませてソファの背にしなだれかかった。
「ナルは平気みたい」
「らしいな」
「いつから飲んでるの?酔ったりする?お酒って美味しい?好き?」
矢継ぎ早な質問に、ナルは面倒そうに肩をすくめた。
「特に美味しいとは思わない」
「え!そうなの?!じゃ、なんで飲んでるのさ」
「・・・・抵抗をつけているというところかな」
「てーこー?」
「酒が必要な席というものもある。その時に醜態をさらさないように、知識を学んでと経験を積んでいるところ。自分の上限を把握しておく必要もあるしな」
「・・・・なんか、つまんないみたい」
「面白くはないだろう」
ナルはそう言うと話は終わったとばかりに読みかけの本を開いた。
電車から読んでいるペーパーブックはもうすぐ終わる。
事務所を出た時点ではまっすぐマンションに向かうつもりだったから、いくらナルでもそれ以上の本や資料は持ち合わせていない。
終わったら、どうするんだろう。
どうする、つもりなんだろう。
麻衣はそう考えて一人赤くなりつつ、もう一方でごく冷静に、そんな卑怯な自分を眺めていた。中学生で天涯孤独になってから、いつでも自分一人で立てるようにしていたのに、いつの間にこんな怠惰な考え方を身に着けたのか。
それが酷く危ういことのように感じて、麻衣は身震いした。
自分はどうしてしまったのだろう。
まるっきり私らしくない。
だから麻衣は酔ってしまいたかった。
弱虫で、卑怯臭いと思うが、酔って、羞恥心とか自制心とかそういった邪魔なものを取り払ってしまってしまいたかった。そうしてでも向き合いたい。そうしないと向き合えない。
「わたしたちって、実際どうなんだろうね」
ずっと、ずっと、気になっていたこと。
滝川の質問に閉口したのは、恥ずかしいばかりじゃない。実際によく分からないからだ。
麻衣は大きく息を吸って一息に話した。
「ナルは大人だよ、ね。少なくとも大人になろうとしているよね。それなら、さ、恋人と一緒に寝てて・・・その・・・・キス以上に、あたしに興味は・・・ない、の・・・かなぁ・・・とか?」
酔っぱらってしまいたかったけれど、頭の隅はさえざえと冷え切っていて、うまく酔えなかったらしい。さり気なく話たいのに、声は裏返った上に最後はやっぱり誤魔化してしまった。
そのまま黙り込むと、部屋には大変微妙な沈黙が落ちた。
麻衣としては最大限の勇気を振り絞ったつもりなのだが、それなのに対面する恋人は無言のまま、顔すら上げない。
ペラリ、と、頁をめくる音だけが嫌に規則正しく響いた。
聞こえなかったのかもしれない。最後には、麻衣はそう結論付けてソファから立ち上がり、遠慮がちにベッドに潜り込んだ。
冷たいシーツの隙間に入るとぶわっと涙が溢れた。
何の涙かと、名前を付けてしまう事すら怖い。
それでも涙を溢れさせる感情に、麻衣はもう気が付かないわけにはいかなかった。
春の終わりにつきあい始めて、もうすぐ半年になる。
両思いになった、と、確信できたのはその日ばかりで、以来、付き合い始めたからと何か特別なことはなかった。
ただ時々マンションで一緒に食事をするようになった。
キスをした。
その内同じベッドに眠るようになった。
恋人でなければしないだろう、それらのことがある程度の満足をもたらした。
記念日を作るとか、デートをするとか、プレゼントをもらうとか、そんなことはナルの性格を考えればそもそも望むべくもないことだと諦めもついたから。
けれど同じベッドで眠りながら、抱き合ってキスする以外のことを一切しない、それがいくらなんでも不自然すぎるだろうということは、月日を重ねるうちに嫌でも意識せざるを得なかった。いくら麻衣でも、全く気が付かない程の天然ではない。もう19歳なのだ。
麻衣にしたところで男性経験は皆無、得意な分野ではない。
できるなら回避したいような事柄だ。
特にないならないでいい。ないならないで安全で、ほっとしていて、明るくあっけらかんともしていられる。自分からしたいとは思わない。
けれど、それはナルだからなのか。
自分が幼いせいなのか。
魅力がないからなのか。
もっと言えば、ナルが自分に求めているのは"恋人"ではないのからなのか。
自分が勝手にそう思いこんでいるからなのか。
理由不在が不安の種となり、それは考えまいとしてもいくらでも増えていった。
ぱさり、と、本が置かれる音がした。
目には涙があふれ、心臓は早鐘のように打っているのに、その音だけは聞き逃さない。
それがあまりに情けなくて、麻衣が再度眉根を寄せたところで、低い声が返事をした。
「興味がないわけじゃない」
どうにもハッキリしない短い言葉。
それでも全身全霊で、すがるようにその声に集中してしまう。
キリキリと音がするような緊張感の中、声の主は僅かに躊躇うように口を閉ざし、ややあってから告げた。
「ただ、好奇心以上に嫌悪感が先立つんだ」
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