X県の県庁所在地に5年前に建設されたベターマンションの調査依頼を受けたのは、同棲を始めて間もない、梅雨明け前の7月のことだった。
そこでの調査途中、麻衣はリンにレイプされる夢を故意に繰り返し見せられた。
夢といえど、麻衣はそれで十分傷ついて、ナルは控えめに表現して激怒した。
調査対象となる問題が解決した夜、滝川以外のメンバーの配慮で一晩2人きりになった。
そこでナルはレイプを嫌悪しつつも、恋人への嫉妬心と独占欲を優先させ、麻衣を抱いた。
「優しくしてやる自信もない」
自身が宣言した通り、その日のナルに普段の配慮はなかった。
そうされて初めて、麻衣はそれまで自分がいかにナルに大切にされていたか分かった。
力任せの拘束は純粋に恐怖したし、きつく噛まれた痕は、3日経っても消えなかった。
それでもナルは最後の一線を越えなかった。
自分の身体を触らせるようなこともしなかった。
それが、どんな痛みの上のできごとだったのか、その本当の意味を麻衣が知るのは、調査後しばらく後のことだった。
バイトを終え、ワーカーホリックの上司よりも一足早く事務所を出た麻衣は、駅に向かう途中でふと足を止めた。ベターマンションの調査以来3ヶ月、その足取りは日増しに重くなっていたが、今日はとうとう足が止まった。
「ああーーーもう!」
何だってこんな風に悩まないといけないのか。
一人路上で麻衣が吠えると、背後から声がした。
「随分ぶっさいくな顔してるわね」
キっと振り返ると、そこにはなんだかキラキラした格好の綾子が立っていた。
「事務所行こうと思ってたけど、ちょうど良かったわ。暇でしょう?ご飯付き合いなさいよ」
腰に手をあて、いささか顎が上を向いた綾子は、態度通りどこまでも強気で、有無を言わさず麻衣を連行した。
「ウーロン茶ぁ?せめて最初の一杯くらいは付き合いなさいよね。そうねぇ鈴音なんていいんじゃない?ポン酒だけど甘くてまるっきりのジュースよ。鈴音1つと、私は最初はあさ開きにしようかな。それから牛フィレのソテーに、じゃこサラダ、カルパッチョ、チーズ盛り合わせ、銀めだいの煮付け、揚げ出し豆腐、えいひれに枝豆ね」
露出の多いキラキラした服を着て、キラキラしたメイクをしているくせに、綾子が麻衣を誘った店は居酒屋だった。雰囲気が良く、各席個室になっているのがまだ救いか、そんなことを考えながら、麻衣は感心したように綾子を見上げた。
「綾子って本当に和食好きだよね」
「そうね。カロリー低いし、健康志向でいいでしょう」
オブラートに包みつつ嫌味を言ったつもりだったが、綾子はどこ吹く風と完全無視した。
調査現場ではまるで役に立たないことが多い綾子だが、こうしてプライベートで2人きりになると、突然姉御風を吹かせて乱暴になる。
「最近元気ないみたいじゃない。ナルとうまくいかなくなったんでしょう?」
そうして乾杯まもなく、綾子は直球を投げてきた。
「なっなっなっっ」
「時期的には夏以降よねぇ。何、やっぱりベターマンションのショックが長引いてるの?気まずくなっちゃったってことかしら。エッチ怖くなっちゃったとか?」
「綾子〜〜〜!!!!!!」
吹きださんばかりの勢いで麻衣が立ち上がると、綾子は面倒そうに眉を下げた。
「なによ、私と麻衣の間じゃない。姫乃島もベターマンションも一緒に行ったのよ?何今さら恥ずかしがってんの?そういうの面倒だからやめてよね」
「め、め、面倒とか、そういう問題じゃないでしょうが!」
「大丈夫よ。個室だし、余所の話なんてみんな興味ないから、聞こえない聞こえない」
「だからっっ」
「これでも心配してんのよ」
ぺしり、と、頭を叩かれて、麻衣はそのままぺたりと座り込んだ。
乱暴で、臆病で、不器用な綾子が優しいことはよく知っている。
青菜に塩。
一気にしょぼくれ返った麻衣を横目に、綾子は次々に料理を小皿に分け、甲斐甲斐しくテーブルを仕切った。その手慣れた様子を眺めながら、麻衣はぽつりと零した。
「怖いとか、そういうんじゃないよ」
「そうなの?」
「そうじゃないけど・・・・なんかビミョー」
麻衣は言葉を濁しつつ、ぼんやりと状況を説明した。
「多分、ナルは罪悪感を持ってるんだよね」
端的に言えばたった一言。これだけ。
直接話し合ったことなどないが、態度を見ていればこれくらいは分かる。あの晩以来、ナルは以前以上にずっと警戒して、緊張していて、麻衣に指一本触れてこなくなったのだ。キスもしない同棲生活の気まずさから、麻衣の帰宅拒否症は始まっている。
実はそれでまだ自分たちが未経験だとかそういった諸々の話題を避けても、姫乃島とベターマンションの調査を共にした綾子は、それだけでおおよそを察してくれた。
「なんで・・・って、多分アレよね。昔サイコメトリで見たっていうやつ?」
「綾子知ってるの?」
「調査の時リンが言ってたわ。だからあの犯人はナルのタブーを4回ぶち破ったって。まずは麻衣ってのが最悪でしょう?しかも相手はよりによってのリン。おまけにナルが専門にしている暗示を悪用してて、暗示内容がナルが最も嫌悪する犯罪だって。あの時麻衣は寝ていたから知らないでしょうけど、本当に怖かったのよ〜〜。ナルの周りで静電気がスパークしてなんかタチの悪い魔神とかみたいだった」
綾子の身震いに苦笑しながら、麻衣は苦しくなって肩を小さくすぼめた。
数え上げれば恐ろしくピンポイントだ。
麻衣は今さらながらにその時ナルが受けたショックを思って顔を曇らせた。あの時は正直自分のことだけで手一杯だった。いっぱいになってしまって、ショック状態のナルの本当のところを見逃したのかもしれない。
「そう考えるとあの調査ってナルにとって最悪だね」
「だわね」
「確かにあれ以来なんだよなぁ」
麻衣はほぅっと息を吐き、目下にあった可愛らしい日本酒をごくごくと飲んだ。確かに綾子が薦めた日本酒はジュースのような飲み心地でまるでお酒らしくない。しかし息を吐くと十分酒臭くって、ぐわっと顔が熱くなった。
その勢いで麻衣は手当たり次第に食べ始めた。飲んべえの綾子がチョイスした店なので、料理も酒も十分に美味しいのだが、そんな味覚も無視してやけ食いを始めると、何だか気も大きくなってきて、麻衣はそのまま外聞構わずふて腐れた。
「だいたいさぁ、エッチとかって恋人には必要性はないよねぇ。子ども欲しいんじゃないなら関係ないじゃん。そんなんで悩んでいるなんてバカらしいと思う」
「ん?」
恋人同士で大切なことはもっといっぱいあるじゃない。
麻衣のあまりに幼い、それでいて素直過ぎるほど率直な感想に、綾子は呆れたが、すぐにそうねぇと首を傾げた。
「まぁ、全く必要ではないわよね」
「でしょう?!」
「プラトニックもいいと思うわ。でも、あった方がいいんじゃない?キスと同じよ」
「キスぅ?」
「そうよ、キスこそ必要なんてかけらもないじゃない。何のためにするのよ?」
「・・・・」
言われてみればその通り、と、麻衣が考え込むと、綾子はゲラゲラと笑った。
「嫌いなヤツとするキスは最悪だけど、好きな人とタイミングよくするといいじゃない。手っ取り早い愛情確認の方法で、仲直りのきっかけにもなる。キスなんかなくても付き合ってられるけど、キスがあった方が楽しいし、まぁ円満よね。キスはいいもんだってことくらいは麻衣だって分かるでしょう?」
「・・・・まぁ・・・」
「エッチだって同じよ。いらないってバカにするのは簡単だけど、あればいいもんよ。キスより効果大だしね。キスとエッチの違うトコは女の子に実害があるかないか、それだけよ」
麻衣が反論をしようと考え込んでいる間に、綾子は空になった皿を下げ、麻衣にはウーロン茶を、自分には八海山を注文した。
「でも、ナルにはトラウマもあるんだもん」
そう簡単にはいかないという呟きに、綾子は肩をすくめた。
「まぁ私も経験したことないから分かんないけどぉ。今までだって麻衣なりにトラウマに対応はしてきたんでしょう?まぁ調査がきっかけになったとしてもさぁ、それで今まではうまくいってたんだったら、それが言い訳にはならないんじゃない?」
綾子はそんなことを言いながら首を傾げ、長い髪をかき上げた。
「それに実際問題よ。この安全な日本にしたところで、年間どのくらいのレイプ犯罪があると思ってるの?」
「・・・・何が言いたいのさ」
「いやね、ナルは確かに特殊だけど、そうしたトラウマを何とかして克服して生活している人って意外に多いと思うのよ。犯罪そのものが一番悪いわよ。それこそそんな犯罪者こそ極刑にしたいところだけどさ。でも、その現実は人間の強さとでも言えるわよね。すっごい努力や周囲の気遣いとか時間とか色んなものの末に克服してるんでしょうけど・・・それでも人間は克服するのよね。人間って結構しぶとくて強いんだなぁって思わない?そうそうトラウマなんかに負けたりしないって頼もしくなんない?」
「・・・負けてる人が悪いみたい」
「そうは言ってないわよ。でもさ、トラウマって超えちゃいけないわけじゃないんだから、そんなにゴネてないでもっと前向きに取り組みなさいよって話よ。あんたらだったらできるんじゃないの?」
「随分買ってくれるね」
「べぇっつぅにぃ。とにかく、あたしはエッチなんてなくてもいいじゃんって言うあんたが正常で正しいことしてるとは思えないの!だからこうして色々口出したくなるの」
「・・・・」
「麻衣はシリアスに考え過ぎなの?それとも本気でそんな寝ぼけたこと信じてるの?そもそもそんなおかしな事考えてたりするから、うまくいかないんじゃないの?」
綾子はまるで遠慮をせず、言いたいことを言いたいだけズバズバ言って酒を飲んだ。
綾子なんかに口で負けるわけにはいかない。そうは思うが頭が付いてこない。
酸欠の金魚のように口をぱくぱくだけさせて、結局は言葉にならない麻衣を前に、綾子はふと何かを思いついたように突然愉快そうに口の端を釣り上げた。
「そうよ、あんた1回ぼーずとでも寝てみたら?」
「ぶぅぅぅっっ」
届いたばかりのウーロン茶を飲んでいた麻衣は勢いよく吹き出した。
麻衣がむせて咳き込んでいる間に、綾子はそうだそうだと勢いをよくした。
「それいいんじゃない?麻衣相手だったら生臭坊主も最上級に優しくしてくれるでしょうし。あんたさぁゴチャゴチャ考え込んでないで一回ぽーんといいエッチしてもらったら?」
「あ"や"ぁごぉ!?」
「2人きりだから詰まっちゃうのよ。ナルと付き合う前に誰か彼氏の一人もいればよかったんでしょうけどさ。いないならしょうがないじゃない。今からでも遅くないわよ。一回そういうのを体験しちゃってさぁ、エッチってのもうちょっと楽に考えられるようになったら、解決も簡単な気がしないでもないのよねぇ」
「あやごっっ!」
「ま、その後ぼーずはナルに殺されるでしょうけどね」
まるっきりの噛ませ犬ね。と、綾子はゲラゲラ笑い出した。
こっちは本気で悩んでいるのに笑い話にされたようで、麻衣は盛大に眉間に皺を寄せ横を向いた。その様子に綾子はさらに笑い転げながら耳に痛いことを続けた。
「自分たちでなんとかなるから、浮気なんてそそのかすなって位言いなさいよ」
「・・・・」
「ナルのことを気遣ってるのはわかるけど、麻衣ってばこのことになるとホント消極的。随分遠慮しぃなのね」
「ふん」
「変なのぉ。普段はそれこそ怖いモノ知らずでナルにつっかかっていけるのに」
「・・・・っ」
言いよどむ麻衣に、綾子は極端な話だけど、と、前置きして続けた。
「親しき仲にも礼儀あり。それは確かね。でもそれと恋人同士の遠慮は違うと思うのよねぇ。遠慮してやるのって優しくも何でももなくない?遠慮してるって言って、結局問題を先送りにして見ないようにしてる感じ。そんなのって相手を甘くみてるって気がする。第一自分を大切にしてないじゃない。そんなの続けていたら自分がどう感じて考えているか忘れちゃうわよ。それってつまんなくない?麻衣はそれで楽しいの?」
「・・・・」
「そんな関係が長く続くなんて思えないけどねぇ」
キラキラ光るピンクの長い爪を弄りながら、綾子はちろり、と、麻衣を盗み見た。
「あんたとナルってそんな薄っぺらい関係だったっけ?」
すっかり黙り込んだ麻衣を余所に、綾子はデザートを山のように注文して、その大半を太るからいらないと、麻衣に押しつけた。
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