#008  ジーンと麻衣は?
 

 

 

気がつくと、ナルは見知らぬ部屋のソファに横たわっていた。
 

 

 

慌てて飛び起きると、それに気がついたジョンがやんわりとそれを制した。 

「急に動いてはいけませんです」
「・・・・ジョン?」
「渋谷さん、滝川さんのご供養の途中で倒れはったんです」

ジョンの説明にナルは途端に顔を顰めた。
確かに、滝川が法要のため経を上げていた以降の記憶がない。
そうしてナルはジョンの制止を振り切ってしっかりとベッドの上に起き上がり、眉間に皺を深く刻んで、見慣れぬ部屋を振り仰いだ。

「ここは?」
「へぇ、施設さんの控え室予定の部屋です。ソファがあるうっちゅうお話でしたので、こちらに運ばさしてもろうたんです」
「僕はどのくらい眠っていたのでしょう?」
「ほんの30分程度です」
「他の人間は・・・」
「さっきまで原さんがおはったんですが、雨に濡れて寒い言わはりましたので、松崎さんと滝川さん、安原さん達と一旦ペンションに戻らはりました。今晩はこちらでも念のためにデータ取らはるんやろうからて、滝川さんと安原さんはペンションに待機してはるリンさんと打ち合わせして、機材積んで戻ってくるそうです」
「ジーンと麻衣は?」
「お二人は周辺の確認ついでに気温を測ってくる言うて、館内を見回ってますです」

ジョンは簡潔に説明しながら、すぐにでも動き出そうとするナルを止めた。

「渋谷さん、顔色が優れまへんよって、少し休まれてはいかがでっしゃろ?」
「もう大丈夫です」
「けど・・・」

表情を曇らせるジョンを前にして、ナルは僅かに眉根を寄せ、声を落とした。 

「ご迷惑お掛けしましたが、ただの貧血でしょう。本当にもう大丈夫です」 

祈祷の終わった中庭を見ると言い張るナルを、ジョンは念のためと言って手元の聖水を使って身を清めて送り出した。

「安原さん達はこっちへ戻らはると思いますですので、僕はここで待ってます。二人が来はりましたら追いかけますんで、くれぐれも無理はなさらんとって下さいね」

 

 

 

 

 

 

 

 

外はまだ細かい雨が降っていた。
ナルはその中を裂くように歩き、設置したばかりの中庭の石碑を見上げた。
死者を悼む思いの込められた、いびつに歪んだ石は、忌まわしいものから目を逸らすための蓋にも見えたし、胃を焼き、胸をつまらせる、吐くほど辛い感情が具現化したモニュメントにも見えた。
ナルはその石碑に手をついて、少しだけ普段ガードしている意識の扉を開いた。  
けれど、石碑の記憶は古過ぎ、時代とともに劣化したようで、ジーンや麻衣が見たような過去はナルの脳裏には何一つ浮かんでこなかった。 
ナルはため息をつき、何気なく建物を見上げた。
出来たばかりの文化施設は無駄に広く、除霊後の監視をするにも最低カメラが5台、マイクが7本は入用になる。調査途中のペンションは、それだけの機材がすぐ出るようなコンディションではない。更にオープン前のここにはまだ電源がひかれていない。少なくともペンションで無駄になっているカメラを回収し、バンに予備として置いておいた仮説電源のメンテナンスをしてからでないと滝川らは戻らないだろう。
ナルはそう考えると、建物の中に入り、まだ人の気配のない新築の建物を歩いて回った。
文化施設を銘打つそこは、安い合成木材を利用したフローリングの廊下が続き、その先に毛足の短いじゅうたんが敷き詰められた用途別の部屋が連なっていた。
没個性的なデザインに、文化の香りのしない空間が切り取られている。
歴史と伝統を重んじるケンブリッジを見慣れているナルの目には、それは滑稽な光景として映った。その様相は文化の意味を見失った日本を端的に現しているようにも見える。ナルはさしたる興味も持てないまま、薄暗い廊下を足音も立てずに歩いた。
比較的大き目のスペースを取られた図書館予定の部屋を通り過ぎ、更に先へ進むと、そこは廊下を中心に左右に小部屋がいくつも区切られていた。
中央を大きくガラス張りにしたドアを覗き込むと、小部屋にはオーディオルームにでもするような様相を模した部屋が連なっていた。まだオープン前のそこには設置されるべき機材や椅子等は搬入されておらず、作り付けの真新しいテーブルだけが所在なげに設置されていた。
そのあまりにつまらない光景に飽き、ナルが踵を返して控え室に戻ろうとした時だった。

 

奥の部屋から何かが倒れる音がした。

 

それはごく小さな音だったが、確かにナルの耳に届き、ナルは戻りかけた体の向きを変え、音のした方に足を向けた。

 

 

 

 

グレーとダークグリーンのじゅうたんが敷き詰められた少し大きめの部屋。
表示を見れば、そこはコンピュータールームを指していた。
ガラス張りのドア越しに覗き込むと、コンピュータを設置する予定であろうテーブルがいくつも並べられていて、その奥に、ナルは2人分の足が床に折り重なって投げ出されているのを見つけた。
長い足は見慣れたジーンズに包まれていて、短い足はカーキのカーゴパンツ姿。
それが意味するものに、ナルの身体は行動の一切を停止した。

 

ドア越しでは中の会話は聞こえない。
テーブルが邪魔して、中にいるであろう2人の表情も、状況も、よくはわからない。
けれど、そんな瑣末な情報がどれほどの役に立つ?

――― 戻れ

他人の恋愛事情など自分には何の影響もない。

――― 戻れ

いくら何でもそこまで野暮じゃない。

――― 戻れ

動かない手足に、無意味な命令を繰り返す。
しかし、長い足が短い足を囲うように膝を立てた。それが視界に入った瞬間、
ナルは本能が示す命令に背いて、 部屋の扉を開けた。