#003  せいぜい気をつけるさ

    

夏の盛りを越え、気温が一段低くなった。

とはいえ未だ一年の半ば。

しかし、優秀な部下は人の先手先手を考えるものらしく、年半ばにして予算の消化率を弾き出して、そのデータを卓上の話題に上げた。

 

「というわけで、財団からの寄付金の内3割はラボの解析機器に回さざるをえなくなりました。すると当初予定していた暗視カメラの予算には届かなくなります。プールしておくにも年末までに消化しておかなくては、来年への監査にひっかかりますので、購入機材を変更するか、どなたか別のパトロンに融資を打診してみなければなりません」

「・・・・・」

「ナル。聞いてますか?」

 

極めて優秀な部下の僅かに苛立った声に、ナルは頬杖をついたままゆっくりと顔を上げた。

 

「・・・・・・聞いてる」

「では判断を」

「別のパトロンに話をつけるとすれば、一度帰国しなければならないだろうな」

 

うんざりとため息をもらすナルを一瞥し、長身の部下、リンは声もなく頷いた。

その様子にナルはさらに深いため息をついた。

 

「今はあまり帰りたくないな」

「何故です?」

「論文が進んでいない」

「共同研究への寄稿論文ですか?」

「ああ」

「少し趣向の変わったテーマでしたね。確か 「宗教学的見地から見た記憶と伝達」 だったでしょうか?」

 

リンの問いかけに頷きながら、ナルは悩ましげに瞼を閉じた。

そもそもはSPR本部にて調査中に発見された呪具が発端だった。

その呪具は主に人間の記憶に影響を及ぼす呪術に用いられるものだったのだが、術者亡き後も呪術は続行されており、調査期間中にその対象となった人間らのクリアな情報が相当数記録されたのだった。当初、そのデータは本国にいる脳神経化学が専門の学者が解析し、論文として取り上げる予定だった。しかしその呪具本体の由来や特性が全く分からないということから、呪具自体は呪術に詳しいリンの元に処分を目的に送られた。その経緯からナルにも呪具の話題が飛び火し、宗教学専門の見地からも論旨を寄せ、共同論文として発表しようということとなったのだった。

 

「人間の記憶を捏造する過程の解析だ」

「あの呪具の効力に関して言うなら、捏造というには語弊がありますが・・・・」

「いくら言葉を飾ったところで中身は一緒だ。人間の脳が生存本能で無意識に行っている記憶操作を作為的に実行させるというだけだろう」

「まぁ・・・極論はそうなりますがね」

「さして珍しい症状を扱っているものではない。宗教学的にも歴史上で多用されて類似する判例には事欠かない。記憶の再編成は単なる脳の情報操作。つじつまを合わせつつ、自分の生命維持に都合の悪い情報をカットする。本能が無意識に行う危機回避能力。けれど、そんなものがあるから間の主観は現実を記録するのに適さない。脳というフィルターがある限り、人を通したデータは当てにならない」

「あなたの主張はわかりますよ。事実そのことで心霊現象の証言は不透明なままですから」

「そう、これは僕の考え方のベースに関与するものだ。だからここまで手こずるとは正直予想外だ。こんなに時間を割く必要はなかったはずなのだがな」

「春前に呪具が届いて・・・それからですからざっと半年。確かに珍しいですね」

「まぁな」

 

ぎしり、と、音を立てて背もたれに身を預け、ナルは不機嫌そうに唸った。

 

「お陰で他の仕事の進捗も遅れている。ここでイギリスに帰るのは、正直時間が惜しい」

「そうですか」

「機材購入は別のものに充当する。予算前提で見積書の手配を頼む」

「はい」

 

ナルはそれだけ言うとすぐに視線を自分のパソコンに落としたが、いつまでたっても席を外そうとしないリンに気が付き、煩わしそうに眉間に皺を寄せた。

 

「・・・・なんだ?」

 

問いかけに、リンはしばし躊躇し、ややあって口を開いた。

 

「ナル、最近あなたは少し変です」

「?」

「苛立つことは以前から頻発しておきることでしたが、今は常に余裕がない。集中力も減退しているのではありませんか?」

 

論文が遅れているのは、テーマよりもむしろメンタル的な問題が原因ではないかと、リンは暗黙の内にナルに問いかけた。

常にないプライベートに関わる追求に、ナルは眉根を寄せた。

しかしリンはナルの機嫌には構わないとシラを切り、よどみない語調で話を続けた。

 

「無粋なのは承知の上で尋ねます。苛立っているのは、ジーンと谷山さんの事が原因ではないのでしょうか?お2人が交際されているのは既に周知の事実です。しかし最近、谷山さんは頻繁にあなたとジーンの自宅にいらっしゃってますね。プライベート空間にジーン以外の人間がいることに、ストレスを感じられているのではありませんか?」

 

そうしてリンは淡々と言い切った。

 

「それならば解決は簡単です。ジーンとの別居をお薦めします」

  

さり気なさを装ってはいるものの声色は固く、予算云々よりもむしろ本題はこの話題だろうことが伺えた。

それを踏まえた上で、いか様にも解釈できる余白あるもの言いに、ナルは僅かに眉を上げ、それからすぐ、我が身を省みて嘆息した。

指摘されるまでもなく、初めに恋人となったのはジーンと麻衣だった。

その後、シンシアの一件からナルを含めた3人で付き合うというかなり突飛な環境に関係は変化したのだが、その後も一緒に外出する、プレゼントを贈りあう。そんな傍目にも分かる恋人同士が行うであろう様々なイベントについては、無関心のナルは捨て置かれ、麻衣の相手はいつもジーンに限られていた。ジーンは麻衣と類似する性質を持っているので、その行為は特別不快に思うものでもないらしく、二人は嬉々として遊園地に、映画にと様々な場所へ出かけたりしていた。ナルにしてもそれは都合のいいことだったので、特に気にすることはなかった。

お陰でおよそ2ヶ月の月日が流れた今に至っても、第3者がナルとジーンと麻衣の一種奇妙な関係に気が付くことはまずなかった。

それで不都合はないとナルは判断していたのだが、この会話によって別の問題が発生していることに気が付かされた。

ごくありふれたカップルとなっているジーンと麻衣。

しかしそうなればさらに自分達3人の関係は不自然なものにも見えるのだろう。

1組のカップルに、ぶら下がるように付いている人間嫌いの弟。

しかもその弟であるナルに麻衣への恋慕の情があると疑ってかかっている滝川のような人間からみれば、この関係は滑稽なほど憐れにも映ることだろう。

リンの言い方はそれら全てを包括した対応策だ。

  

「なるほどな・・・・」

 

うまいことを考えるものだとナルは素直に感心し、小さく相槌を打った。

しかも提案する相手を自分に固定したところが、この部下の優秀なところと言えよう。

仮にこれをあの兄が一緒にいる場で提案すれば、すぐに騒ぎ立てられ、泣き喚かれ、あっという間に策は無に返る。

リンはそのナルの相槌を返事と取り、さらに確認を取った。

 

「では、すぐに部屋を手配します」

 

――― が、生憎と事態はそう簡単なものではない。

 

ナルは僅かに自嘲し、頭を横に振った。

 

「その必要はない」

「しかしっ」

「リンがどのように考えたいかはさておき、僕にその必要はない。見当違いの解決策だ」

 

その硬質な拒絶をリンはしばらく眺めたが、一ミリも揺らがない闇色の瞳を見つけると、諦めたようにため息をつき、彼にしては珍しく含みのある苦笑をその端正な顔に浮かべた。

 

「あなた方がまだ17歳の子どもでしたら保護者の権限を使って事態の改善を努めますが、残念ながらあなた方はもう大人だ」

「・・・・」

「ただ、忠告はさせて下さい。あなたは自分自身のメンタルについては、驚くほど楽観ししている。人間とはそんなに強固なものではありません」

「・・・・」

「強情ばかり張って、破滅しないで下さいね。ドクター」

 

彼らしくもない、ともすれば滝川のような忠言に、ナルは少し意外に思いながらも、ゆっくりと口の端を歪めた。

 

「せいぜい気をつけるさ」
 

優秀な年嵩の部下はそれ以上口を開くことはなく、無言のうちに所長室を後にした。