#004  悪循環

    

   

遅々として進まない論文に見切りをつけ、ようやく重い腰を上げたのは深夜に近い時刻だった。

所長室を出た先の応接室には既に人影はなく、他の部屋も既に明かりが消えていた。ナルは手早く戸締りをすませて事務所を後にし、タクシーを止めた。
ジーンに嫌がられても、ナルは相変わらず夜の風景に溶けてしまいそうな真っ黒な格好をしていた。
しかし渋谷道元坂を下っていたタクシーは彼を見落とさず、すぐ前で停車し、運転手は余計な口を利かず、ナルが行き先を告げると黙って車を走らせた。

低いエンジン音に、僅かにラジオの音が漏れ聞こえる。

スプリングのきいた後部座席に沈み込み、僅かな振動に身体をあずけると、今にも瞼が落ちそうなほど酷い睡魔が襲ってきた。

ぼんやりと霞む意識の中で、ナルは先にリンに指摘されたことを思い出し、眠気を払い出すように唇を尖らせた。

  

  

 「  最近あなたは少し変です  」

 

 

確かに、すぐ側に見ず知らずの他人がいるというのに、眠り込もうとする自分はおかしい。

論文の論旨に途中から矛盾を感じて、何度も書き直すような自分はおかしい。

集中しきれていないのが原因とはわかる。

いつも、どこか上の空になっている。

それ自体がおかしい。

非常に、おかしい。

症状から推察するに原因が心因性のものである可能性は、指摘されるまでもなく高い。

けれどリンは状況を完全に誤解している。

だからリンが言ったことは破棄すべきだ。

ありえない。

ナルはリンの言葉を噛み潰すように、きつく瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

「 ジーンとの別居をおすすめします 」

 

 

  

 

 

 

 

冷静に考えれば、それも一つの策として候補に上がるのは当然のことだ。 

けれどリンに言われるまでその可能性をナルはまるで考えてはおらず、完全に虚をつかれた。また、そうと指摘されて反射的に怒りを感じる程には不愉快になった。 

そうしてそんな反応をした自分自身を、ナルは正直もてあましていた。 

こんな子どもじみた、感傷的な感情が自分にあることが信じられなかった。  

 

 

タクシーは渋滞に巻き込まれることなく人気のないマンションに到着した。
日本の滞在延長を決めてから契約を結んだマンションは、セキュリティとプライベート保持に優れているため、ナルは誰とも顔を合わせることなくエントランスホールを抜けてエレベーターに乗り込み、やたらに入り組んだ廊下を抜けて自室に到着した。

濃い藍色のドア。

開けると、玄関には見慣れた黒のスニーカーと水色の小さなミュールが揃えてあった。

 

――― 確かに、この環境にストレスを感じないわけではないが。

 

ナルは小さく自嘲し、靴を脱いだ。

玄関から短い廊下が伸び、すぐに広いリビングに繋がっている。

間取りは一般的な3LDKで、リビングを中心として、水周りと別室へ続くドアが並んでいる。そのうち二部屋はナルとジーンそれぞれの寝室、残り一部屋はナル専用の書斎として使用している。

3人が揃う時はいつもリビングもしくは主寝室にあたるナルの部屋にいるのだが、今、そのリビングに人影はなく、玄関にあった靴の分の気配は、閉ざされた扉の奥、ジーンの部屋にあった。

疑問に思うまでもなく、深夜に2人がしているであろうことは予想がつく。

邪魔するつもりは毛頭ない。

むしろ自分の帰宅にも気が付いて欲しくない。

ナルはそんな煩わしさにだけ顔を顰めつつ、寝室から少し離れた書斎に向かい、明かりもつけずに事務所の所長室と同一の椅子に身体を投げ出した。

何もする気が起きないほど神経は疲弊しきていた。

それなのに、知らず鋭敏になっていく意識が忌々しくて、ナルは両手で顔を覆った。

ジーンと麻衣が2人で出かけるのは願ったり叶ったりで、あえて気に留めることはない。

けれど、不条理にも、ジーンと麻衣が2人だけで寝ることには、何故か堪らなく不快感が沸く。

 

――― 勝手なものだな。

 

全開になっているであろうジーンの意識を覗かないように、ナルは慎重に自身のガードを固くした。

サイコメトリにせよ、ホットラインにせよ、繋がることは自然に起こってしまう。拒絶することにこそ意識が必要とされる。

そして、こうした時の集中力は皮肉なことに論文よりもさらに労力が必要なことだった。 

ジーンと麻衣こそが恋人同士だと認められていることに、何の不都合もない。

世間一般に言われる嫉妬心など感じたことはない。

けれど、隣室から伝わる夜の気配は酷く居心地が悪く、不愉快で、そのくせ僅かな物音も聞き逃すまいとするように、神経は研ぎ澄まされ、聴覚が酷く敏感になっていく。聞こえれば聞こえたで、今以上に気分が悪くなるだけと分かっているのに。

 

  

ジーンは失えない。

麻衣は欲しい。

 

 

 

 

だから  " 仕方がない "

 

 

  

 

ナルは知らず力が入っていた左手に気が付き、固く握り締めていた拳を開いた。

開けば、掌の中央には爪が食い込んでついた傷口から赤い血が滲んでいた。

不思議なものでも眺めるように、ナルは首を傾げ、しばらくの間掌に血が滲んでいくのを眺めた。

白い肌にぷくりと真っ赤な血が浮かび上がっていく。

その様子を観察していく内に、ナルはふと、自分が拘っていた言葉の違和感に気が付いた。

 " 仕方がない " とは、何に対する諦めを指すのか、と。

それはいつの間に限定され、覆せないものと決定したのか。 

その時だった。

 

 

「 あああぁんっっ 」 

 

 

一際高い嬌声がナルの耳を汚した。

反射的に見入っていた左手が震え、それと同時に静電気が全身を駆け巡り、ぞわりと全身が粟立ち、頬の辺りを痺れさせた。

その瞬間、ナルの中でラインが繋がった。

 

―――― ああ、そうだ。これでは面白くない。

 

硬直する身体に相反して、脳内はめまぐるしい勢いで考えをまとめていき、それに呼応するように心臓が早鐘のように打った。

ともすれば高揚感で爆発しそうな感情を飼い殺すように、ナルは反射的に大きく見開いていた瞳を、ゆっくりと、ゆっくりと細めた。

かつて意識しないでも有り余るほどあった集中力を失った原因。

それはストレスだろう。

過度のストレス。

  

―――― これでは僕は満足はできていないのだから。

 

ジーンは失えないし、麻衣は欲しい。

この条件は何も変わらない。が、それだけが幸福の条件ではない。

 

 

 

 

 

 

自分だけが2人の唯一無二になりたい。

例え互いのことでも、2人が他人を特別視することは許せない。 

 

  

 

 

 

分かってしまえばなんて簡単なことだろう。

ナルは自然浮かんだ笑みをなぞるように口元を手で覆い、笑顔のまま一人ごちた。

 

「悪循環は断ち切らなくてはな」

 

その声は身震いするほど残忍に艶めいていた。

ナルはそれに満足し、手元を汚した血をぺろりと舐めた。

反射的に鉄錆の臭いと味を覚悟したが、あまりに量が少なかったせいか、血は何の味もしなかった。