#010  行儀が悪い

    

   

ノックもなく所長室のドアは開かれ、音もなくドアは閉ざされた。

デスクの前で転寝していたナルは二三度瞬きをしてから顔を上げ、ドアからデクスへ一直線に歩いてくるジーンを認めた。

ジーンは穏かに微笑みながら片手を上げた。

 

「ただいま」

「おかえり」

 

挨拶が済むと、ジーンはそのままデスクの前まで歩み寄り、積み上げてあった書類を脇によせ空いたスペースに腰を下ろした。

 

「行儀が悪い」

 

ナルが顔を顰めると、ジーンは心外と言わんばかりの表情で肩を竦めた。

 

「行儀が悪いのはナルでしょう」

 

ジーンはそう言うが早いか、長い両足を上げて、腰をつけた場所を基点にくるりと回転し、ナルと対面するように身体の向きを変えて、ナルのすぐ脇に足を下ろした。

 

「せっかくいいバランスで付き合っていたのに、僕がいない間に好き勝手するなんてあんまりだよ」

「なんのことだ?」

「今更とぼけないでよ、麻衣のことだよ。電話ではあれだけベラベラ喋っていたじゃない」

「・・・・」

「ナル知ってる?こういうのねぇ、日本語で"寝取る"って言うんだよ」

 

ナルはディスプレイからの光源に煩わしそうに顔を顰め、瞼を閉じ、眉間を指でほぐした。

 

「それは悪かったな」

「心にもないこと言わないで」

「おや、バレたか」

「・・・・・・・別にいいけどね」

「?」

「盗られたたら取り返すまでだから」

  

ジーンの言葉にナルゆっくりと眉間から指を離し、霞む視界を無理に開けた。

その先でジーンは足をぷらぷらと振りながら憐れみをこめた笑顔でナルを見下ろしていた。

 

「ナルはバカだなぁ。取り合いになったら、性格破綻者の君が僕に敵うわけないじゃない」

 

だから3人がちょうど良かったのに。と呟くジーンに、ナルは僅かな動揺も悟られまいと、身じろぎもせずに淡々と答えた。

 

「その性格破綻者とやらに、ジーンは負けたんじゃないのか?」

 

冷ややかな声にも、ジーンは喰えない笑顔を崩さず笑った。

 

「二勝一敗だもん。まだ痛くも痒くもないよ」

「二勝一敗?」

「今回のは負けだとしても、最初に付き合い始めたのは僕だもん。ここでまず一勝してるでしょう」

「一勝一敗のタイだろ」

 

ナルが言い返すと、ジーンは愉快そうに口の端を吊り上げた。

 

「誤魔化そうったって駄目だよ。僕知ってるもん」

「は?」

「ナルが僕を見つけてくれた時、麻衣は僕を選んだじゃない」

 

 

僕が?ジーンが?

 

 

「ずっと一緒にいたのはナルだったのにね」

 

あまりに痛い核心を突かれ、反射的に顔を顰めたナルを見咎め、ジーンは満足そうに微笑んだ。

 

「麻衣が選んだのは僕だった。そのショックでずぅっと拗ねていたのは誰だろうねぇ」

「・・・・」

「お陰で病み上がりの僕に麻衣を取られた。ずっと好きだったのにね!」

 

ジーンはそこでふいにナルの腕を取り、愉快そうに口角をつり上げたかと思うと、新しく覚えたばかりの記憶をナルに押し付けた。
一枚の写真のように切り取った鮮やかなイメージ。 

その一瞬間のイメージに、ナルは瞠目した。

これ以上ないほどに闇色の瞳を見開き、ナルはそのまま瞬きもせずにジーンを見上げた。

まずもってそうそうお目にかかれないであろう口がきけないほど硬直したナルに、ジーンはゆったりと微笑んだ。

 

「ここに来る前に廊下で麻衣と会ったんだ」

 

誰もが魅了されるであろう、整い過ぎた美貌が端麗な笑顔を作った。

自分とそっくりのこっくりとした色気を纏った顔。
それに似合いの柔和な表情が、続く囁くような蠱惑的な声に艶かしい色を付けた。

 

「3週間ぶりの麻衣は本当に良かったよ?」

 

その一言で雪崩のように圧倒的な力で押し付けられる鮮烈なイメージに、ナルは反射的に立ち上がり、ジーンのむなぐらを掴み上げて、そのままデスクにジーンを押し倒した。

鈍い音がしてジーンが激しく頭を打ったが、ナルは意に介さず、そのジーンの首元を絞めた。

力任せに首を絞められ、苦しげにうめきつつも、ジーンはジーンで意地になってナルの表層に未だ鮮明な自分の記憶をぎりぎりと押し付け続けた。その映像が、ナルの中に完全な殺意を生み出した。

長いようでもあり、短いようでもあったその力のせめぎあいを止めたのは、苦しげにうめきつつも笑ったジーンの一声だった。

 

 

 

 

「 Kill me?(僕を殺すの?) 」

 

 

 

 

ざっと、猛り狂っていた強烈な怒りよりもさらに強烈な、冷たい恐怖心に心臓を掴まれ、ナルは反射的にジーンを締め上げていた腕を離した。

締め上げていた腕から解放され、ジーンは横向きに転がりながらごほごほと激しく咳き込んだ。

その脇で、ナルは放心状態で両手をついた。

脂汗が額を湿らせていた。

その汗を拭うのも忘れて、ナルはじっと自分の白い指を眺めた。

とっさに沸点に達したジーンへの殺意を、ナルは信じられなかった。

 

ジーンを失うわけにはいかない。 

 

自分の生存の大前提に、知らず手をかけた恐怖。

ナルはそのまま両手で顔をおおい、肘をデスクについた。

 

「・・・・・・馬っ鹿な、ナル」

 

少し裏返った声が、仰向けの体勢のまますぐ横で発せられた。 

 

「僕を失えるわけがないじゃない。ナルの一番は、僕なんだから」

 

自信過剰なもの言いに、ナルはぎこちなく、しかしきっちりと顔をしかめた。

 

「ジーン・・・・麻衣を壊す気か?」

 

熱っぽい視線でにらまれた瞳を、ジーンは睨み返し、ため息をついた。

 

「そんなつもりはないよ」

「それなら!!」

「だって、ナルがこんなことをするのがいけないんじゃないか」

「なっ・・・・」

「僕に帰ってくるななんて、ナルが言うなんてありえない」

「・・・」

「麻衣は素直だね」

「・・・」

「たった2週間でナルにすっかり洗脳されて、律儀に僕に別れ話まで持ち出した」

 

ふいと視線を反らしたナルにジーンは慰めるように声をかけた。

 

「でも、麻衣はバカだ」

「・・・・」

「そんなこと " 僕ら " が出来るわけがないのに」

「・・・それとこれとは話が・・・」

「でも大丈夫。ちゃんと身体は僕のこと覚えていたから」

   

発火するように、左手が異常に熱っせられた。

それに引き摺られるように暴走しそうになる意識をナルは必死に自制した。

左手を右手で押さえつけ、その両手を胸に抱え込み、額をデスクに押し付ける。そうしてようやく保っていられる意識。

その手綱を支えることはただ一つ、ジーン喪失に対する恐怖。

それは脆いようでいて、ナル自身が驚くほど強固だった。

その様子を眺めて、横に寝転がったジーンは仰向けになったままため息をついた。

 

「僕は麻衣もナルも愛しているのにさ」

 

冷たいような低い体温の指が、さらりと耳をかすめ、そして漆黒の髪に伸びた。

 

「2人で僕を裏切るなんて酷すぎるよ」

 

耳に流れ込む聞き慣れた声の煩わしさに、ナルは思わず瞼を閉じた。 

 

 

 

 

 

 

「もう僕はいらないの?」 

 

 

 

 

  

 

 

僅かに震えた声が泣いているのは、目を開かないでもわかった。