#011
悪くないわけじゃない
ジーンの泣き声は次第に盛大になっていった。 大人になってからはあまりなかったことだが、元々ジーンは麻衣のようによく泣く性質だった。 近所の猫がいなくなっては泣き、意地の悪い孤児仲間に虐められては泣き、手が冷たいと泣き、気が付いたら母親が死んだ時も泣いていた。 こみ上げてくる感情の濁流を無視して立ち上がり、ナルは子どもに戻ったかのように泣き続けるジーンを残して所長室を出た。 自分達のいた薄暗い所長室に対して、視線の先の応接室は白々しいまでに明るかった。その中でリンと安原は留守中の業務について話をしていた。そして所長室から出てきたナルに気が付くと、2人はそれぞれに怪訝そうな表情を浮かべた。
「所長?」 「ナル、酷い顔色ですが・・・・」
心配そうにかけられる言葉も無視して、ナルは給湯室と応接室を一瞥し、麻衣がいないことと荷物がまだそこにあることを確認するとすぐ事務所をも出て、ジーンのイメージにあった場所を目指した。未だそこにいるとは思えなかったが、そのすぐ横には非常階段がある。身動きが取れず、人目から隠れるならそこしかない。嫌な推測だが、廊下と非常階段を遮る重い防火扉を開き、中をうかがうと、麻衣は非常階段に膝を抱えて蹲っていた。 声をかけられるのも躊躇われて、ナルは音を立てないように防火扉を閉じると、足音を忍ばせて麻衣の側に歩みよった。 膝に額をすりよせて顔を上げようともしない麻衣は、今にもバラバラに壊れてしまいそうだった。 細い肩が小刻みに震えていたことに気が付き、ナルは奥歯を噛んだ。
――― やっぱり殺しておけば良かった。
その殺意に、ナルは吐き気を覚えた。
「ナルだって、麻衣か僕かと言われたら、僕を選ぶでしょう?」 「さてな」
あの時はまだ余裕があった。
「ひどいなぁ。お兄ちゃんより女の子の方がいいって言うの?」
けれど今の自分は今やその問いに明確な答えが持てない。 ナルはちらりと蹲る小さな少女を見つめ、ため息を落とした。 知能レベルは話にならない。性格は強情が過ぎる嫌いがある。感情は豊か過ぎて手に余る。 これの一体どこに好意を感じているのか、冷静になればなるほどわからなくなる。 そんな女だけれども、今の自分はその彼女に触れることすら畏怖を感じている。 まるで壊れものみたいに、胸に迫る。 ナルはゆっくりと麻衣の向かいに階段3段分の間をおいて膝をついた。 そして恐れを抱きながら、ゆっくりと手を伸ばした。 真っ白な手が肩に触れた瞬間、麻衣はびくりと全身を奮わせた。 それが引き金となって、ナルは躊躇っていた垣根を越えて力強く麻衣を抱き寄せた。
「ナ・・・・・・・・・ル?」
ジーンと付き合う方がいいと思えても。
「やぁあ!離して!離して!離して!!!」
例え、ジーンを傷つけて、失おうとも。
「見ないでぇ!!」 「麻衣」
きっと、これが全てを埋めてしまう。
いつの間にか変化していた自分の心境に、ナルは喪失感と充足感の両方を感じた。
「私・・・・駄目なんだよぉぉ」 「何が?」 「ナルが・・・・・好きなんだよ」 「知ってる」 「でも・・・・・・で・・・・も・・・・あたし・・・」 「言わなくていい。ジーンに言われた」
絶句する麻衣の頬をナルは両手で包んだ。
「もうさせない」 「・・・・・」 「麻衣は悪くない」
慰めるつもりで断言した。 しかしそれに対する麻衣は、懸命に首を横に振り、ナルの想像を超えた返事を返した。
「私が悪くないわけじゃない」
力なく、それでもハッキリと言い切った麻衣に、ナルは僅かに目を剥いた。 その表情を見上げて、麻衣は苦しそうにうめいた。
「私はそれでもジーンを嫌いになれないし、ジーンに嫌われたくない」 「・・・・・」 「ナルとジーンは全然別だけど、やっぱりとっても似てるんだよ。・・・・・私は2人を嫌いになんてなり切れない。どっちがだけが好きって・・・・・・そうなれない!」
「麻衣は魂の一番やわらかくて美味しい所は僕に渡してはくれないんだ」
ジーンの言葉がむなしく、ナルの脳裏に響いた。
「 麻衣だって残酷なんだもん 」
鏡に映る自分の姿のようにそっくりで、どこまでもどこまでも同調してしまう双子を前にして、この慈愛の念は確かに残酷だ。
――― 悪意がないのは確かなのだがな。
ナルはその皮肉な関係に苦笑した。 麻衣は自分とジーンを受け入れた。さすれば、どちらかに好意を持ち続ける限り、細胞の核まで同一の片割れまでも嫌うことはできないということなのだろう。不器用で、危うげなほど器用な心だとは思うけれど、それが麻衣だ。 たとえ自分が傷ついても、闇も光も混沌も受け入れる。 そのキャパシティの広さがなければ、おそらく自分とジーンの特別にはならなかった。そしてそのキャパシティの広さゆえに、この双子の闇を増長させた。そしてそれゆえに、自分達双子をこんなにも鮮やかに傷つける。
「それでもいい」
自由は不自由だとは、誰が言った言葉だったろうか。
「麻衣は僕の側にいろ」
麻衣の広さはそれと一緒だ。
――― ジーン。
ナルはぐずぐずと泣き続ける麻衣を抱きしめながら、静まり返ったホットラインをつないだ。
――― 僕は麻衣の側にいたい。お前に渡してやるつもりはない。 ――― これ以上麻衣を傷つけるつもりもない。だからこれ以降、麻衣の側にお前を近付けない。
ナルはリプレイしそうになるイメージを押さえつけ、あくまで冷静な意識のまま言葉を続けた。
――― 僕達は少し距離を置こう。
しばしの間があって、それからすぐ横で声にならない声が返事をした。
――― もう僕はいらないの? ――― 違う、そうじゃない。ジーンはずっと特別だ。お前だってそうだろう。 ――― ・・・ ――― だから、僕達は距離があっても平気だ。隔たりごときで関係が変わるわけはない。 ――― だからって離れるのは不自然だ。 ――― 共存するには、僕らは成長し過ぎたんだ。 ――― ・・・・・・・・・僕らは、嫌になるくらいそっくりだもんね。 ――― そういうことだ。 ――― そしてナルは僕より麻衣を選ぶんだね。 ――― そうだ。 ――― おかしいなぁ、僕だって麻衣は欲しかったんだ。 ――― こんなことをしておいて? ――― そうだよ。だから、いくらナルが仕掛けたからって、ナルだけなんて許せなかった。 ――― ・・・ ――― ・・・・・ああ、でも暴走だ。暴力をふるった人間が悪い。 ――― ・・・・ ――― 暴力では何も生まない。 ――― ああ。 ――― あ〜あ、僕らしくないなぁ。こういう暴走はナルの方が得意なのに!!! ――― 残念だったな。 ――― 嬉しそうだね。 ――― ・・・・
言葉にならない笑みが波動になってナルの脳裏を撫でた。
――― 僕は、ナルも麻衣も愛しているよ。
傲慢さも、不器用さも、能力も、容姿もみな一緒。
――― だから、今は "さようなら" しようか。
結果を分けたのは、単なる運でしかない。 それならば、そんな幸運はジーンにこそあるべきだろうが、その僅かな差異のお陰で自分のもとに転がり込んだ。 腕に残る人肌の温かさに、場違いな罪悪感すら感じて、ナルはそっと瞼を閉じた。
――― ああ。
そして辛うじてそれだけ返事をすると、ぷつりと交信を絶った。
欲しいと思ってしまったものを手に入れる代わりに、やらなくてはいけなくなった想定外の行動は、自ら選び取ったにも関わらず、その瞬間から後悔してしまいそうになるくらい嫌なものだった。心臓を冷やりと冷やすその行為の危うさから逃げるように、ナルは感傷的な考えにしがみ付いた。
踏み台にしようが、ないがしろにしようが構わないし、コケにされようが、ダシに使われようが構わない。それでもあれは、この世にただ一人の魂を分けた双子の兄弟、絶対的な味方。 自分があれを失うことは絶対にない。
だから、怖くはない。
それが酷く自分の矜持には不似合いで不自然なことに、ナルは少しも気が付いていなかった。 |