#012
僕は間に合わない
ジーンと別居すると伝えると、リンは疑問も挟まずにすぐに部屋の手配をした。 しかし蓋を開けてみれば、新しい部屋で悠々自適な一人暮らしを始めたのはジーンで、麻衣は変らず以前からの部屋、つまりはナルの部屋に通っていた。 リンはその事実にかなり動揺していた様子だったが、不機嫌なナルの前でも、陽気に笑うジーンの前でも、そして正面に向かうと目を泳がし、見ているこちらが恥ずかしくなってしまうほど赤面する麻衣の前でも、賢明にも余計な口は挟まなかった。
「来シーズンになったらケンブリッジに戻ろうと思うんだ。それで取り損ねていた単位を取って、トリニティ・カレッジに入学しようかと思うんだよね。そしたらさぁ、ナルも戻ってくるといいよ。今は論文のやり取りしかしてないでしょう?ちゃんと教授につかないと取れない単位もあるじゃない。半年くらいだったら麻衣も休学して付いて来るといいよ。もしくは留学するといいよ。ね、きっと楽しいよ!マーティンもルエラも喜ぶし!」
誰かしらが何かを言おうとする気配は感じられたが、朗らかに微笑み、幸福な未来を語るジーンの前では誰もが言葉をなくした。 丹精な顔に浮かぶ優美な笑顔は、無表情より扱いが難しい。 ジーンはそれをよく知っていた。
イギリスに私物を送るので、一緒に送る荷物はないかと尋ねてきたリンに、ナルは返却要請のあった数冊の専門書を片手にリンの部屋に足を運んだ。 玄関先で本を渡してすぐ退散する予定だったのだが、ちょうどお茶を入れていたので上がっていけばいいと、リンは本を受け取らずに部屋の奥に引き返して行った。明らかに説教臭がする誘いだったが、リンが言いたいであろうことをいつまでも曖昧にしているのも面倒だったので、ナルはリンの小言覚悟で大人しく部屋に上がり、リビングの片隅に無造作に置かれていた法具を見つけた。
「まだあったんだな」
ナルが声をかけると、リンはキッチンから顔を出し、ああ、と無表情に頷いた。
「燃やすか壊してしまうのが一番早いのですが、年代物で希少価値もあるので、できたら封印といった形で保管しようと思いまして」 「ここでか?」 「個人宅では管理に限界がありますから、封じ次第本国に返却予定なんですけど」
薬臭い中国茶を乗せたトレイを運びながら、キッチンカウンターに無造作においてある小さな丸い香炉のような法具を見つめ、リンはそこで言葉を切った。
「けれど、何度か試しているのですが、まだ何か動き続けているような気配が残っているんです。どうもすっきりとしない。だからまだ返送ができなくて、ここに置いておいたんです」
私の気のせいかもしれませんが。と、リンは言い置いて、法具をカウンターの隅に移動させた。 ナルは何気なくそれを視線で追い、それから手元に置かれたカップに視線を転じた。
「調査中の術は解かれたはずだろう」 「ええ」 「それでもまだ誰かの記憶を改変し続けている可能性があるのか?」 「なきしにもあらず、という感じですね」 「新しい術者が使用している、と?」 「そのようなものですね」 「法具から術者くらいは判明しないものなのか」 「私がわかるのは作動している、という微弱な気配を感じるだけですから、相手を限定するほどはっきりしたものは分かりません」 「存外あてにならないな」
歯に衣着せぬナルの評価に、リンは苦笑しながら自身のカップもテーブルに乗せ、その脇のスツールに腰を下ろした。
「この法具は周囲の人間の感情に自ら反応してしまうので、呪符よりも目的が分かりづらいんです」 「どういうことだ?」 「論文であなたが前提として書かれたように、人間は生きいいようによく自分の記憶を改ざんします」 「記憶というものが既に曖昧なものだからな」 「そうです "記憶操作" を他者が他人に強要するには作為が必要になりますが」 「自身がしても "現実逃避" もしくは "自己暗示" と繋がるな。よくあることだ」 「そしてこの法具にそれを見分けることはできません」
リンの言い分にナルはふっと頭を上げた。
「すると何か、この法具は術者がいなくても効果が発揮される?」 「その可能性があります」
調査後すぐ法具は自分のもとに直送されたはずだから、現在法具が術を発動しているとするなら、故意に使用されたというよりは、誰かの無意識の可能性の方がむしろ高いかもしれない。と、リンは淡々と状況を述べた後、自身で入れたお茶をすすった。
「思いが強ければ、それが例え他者に向けなくとも、また正式な術式でなくとも、法具はその力を発揮してしまうんです」 「・・・・まるでぼーさんのような大雑把さだな」
呪符を書く墨をするにもミネラルウォーターを使い、なければレシート、泥水でも構わない。用は気の問題と括る滝川を思い出し、そういえばそうだと、リンは真顔で頷いた。
「我々が使用する儀式や物品そのものは、元々やりたいことを円滑に行うためのサポートでしかない。代用はもちろん、本来はなくてもできる。理想を言えばそうなりますね。それと同じことが物品そのものにも適用されてもなんら不思議なことではないでしょう」 「すると現在の術者は、それと知らずに術を施行していることになるな」 「無意識で行っていれば、そうなりますね。自覚症状もないでしょうし」 「人間の数だけ主観があり、それと同数の現実が存在する。誰にも気がつかれることはないだろうな」 「ええ、多少行きすぎても、傍目には自己暗示の域を出ないでしょう。それに」 「まだ何かあるのか?」 「正式な術者がいないとは言い切れませんが・・・・嫌な感じはしないので、悪用されているようには見えません」 「そうなると放置しておいても問題はないようにも思えるな」
既に興味を失ったようなナルに対して、リンは律儀に説明を続けた。
「ただ、その無意識の感情のどのレベルに対して法具が反応しているかが分からない。勝手に法具が作用してしまうくらいですから、それ相応の強い思い込みが必要だろうとは思いますが。そしてそれに対して法具がどれだけの効果を見せているのかも不明です。ですからおいそれとは手放せない」
推し量れない被害を想定して、手が出せなければ、この法具はずっとリンの手元にあるのではないか。と、ナルはリンの不手際を指摘したかったが、続く小言が先行して結局はそれを口に出せず終いとなった。 予想違わず、リンの小言はジーンと麻衣に関わる生活態度に言及されていた。 リンにしては珍しい湾曲したもの言いは、話題が男女のことで、しかも3人が絡むという異常事態で、かつ相手が悪くは言いたくない麻衣だからだろう。致し方ないと言えばそれまでだが、お陰で小言は際限なく長く続いた。 仕方がないので、ナルはそれを愁傷に聞いているふりをしながら、胸の内で新しく届いた書類のデータを考察し、次にその解析に必要になりそうな書物のラインナップを並べ、平行して参考になりそうな研究者名を思い浮かべ、自室に戻ったらすぐ取り掛かろうと優先順位を付け検索順に並べたりした。 それでもまだ時間があったので、話題が中途で途切れた法具について思いを巡らせ、それに付随して先日上梓した論文について思いが至った。 時間ばかりがかかったあの論文は、客観的に言っても主観的に評価してもいいものには仕上がらなかった。 凡庸で、何かの焼き直しのようなつまらない論文。 ナルは何の気なしに、この論文を寄稿するきっかけとなった法具に視線を転じ、ねめつけた。が、焦点が定まらず、法具は二重にも三重にもダブって見えた。 もはや慣れ始めた自身の不調に、ナルは表情を変えずに喘息した。 もともと、この論文に取り掛かった頃からおかしかった。 あの論文にしても、この霞む視界にしても、突然襲い来る睡魔にしても、その頃から今までのペースが狂いだしている。 走ろうとしても走れない、夢の中のように何かがいつもひっかかるように上手くいかない。
その時リンの携帯が鳴った。 同時に、ナルは唐突に気が付いた。
リンが立ち上がり、椅子にかけられた上着から携帯を取り出す。 恐怖で身動きの取れなくなった子どものように、ナルはそれをまんじりともせず眺めた。 長い指が慣れた様子で携帯を開き、通話ボタンを押しながら黒髪に隠れた耳元に当てられる。そしてすぐ、携帯を握り締めたままリンは表情の薄い顔からさらに色をなくした状態で、ナルに向かって声をあげた。
「ナル・・・・ジーンが交通事故に巻き込まれました」
感情のない表情のまま、ナルはその叫びに小さく頷いた。 リンは驚くこともしないナルに苛立ちながら、手早く病院を確認すると、上着を手に、呆然と立ち尽くすナルの腕を掴んだ。
「今病院に搬送されたそうです。すぐに向かいましょう」 「・・・・いい」 「ナル?!」 「行くなら先に行け。僕は行かない」
リンは意味が分からないと顔を顰めた。 一刻を争うことは電話相手の声からも分かる。早く向かわなくてはいけない。リンは懸命にナルを立たせようと説得したが、どれだけ促してもナルは頑として動こうとしなかった。 強い意志を持った瞳の裏に、この双子の間には何が別のものがあるのかとリンは諦め、病院名を書き残し、先に病院へ向かうことにした。 よほど慌てたのか、メモを記したボールペンが手を離したと同時にテーブルを転がり、硬質の音を立てて床に落ちた。 リンはそれにも気が付かず、彼にしては珍しい大きな足音を立てて部屋から出て行った。 慌しいその足音に耳を澄まし、それが全部聞こえなくなってから、ナルはゆっくりとため息を漏らし、囁くように呟いた。
「どうせ僕は間に合わない」
そして、キッチンカウンターの法具を掴み、ひんやりと掌を焼くように冷たくなっていくそれを見つめ、力なく呟いた。
「ジーンは "
交通事故で " 死ぬんだ」
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