#013
勝手に死ぬのが悪いんだ
おそらく遺体は司法解剖ができないほど損傷が激しいはずだ。
そう、知っている。
ジーンは、誰にも見守られず、交通事故で命を落とす。 死は時としてあっけなく、理不尽とも思える唐突さで訪れるものだ。 誰も間に合わない、誰も止められない。 自分に止めることができなかったのだ、他の何者もそれができるはずがない。
そう、知っていた。
ナルはそこで自身を吟味するように注意深く深呼吸し、最も強烈に瞼に残るサイコメトリの映像を思い出した。 冷たいアスファルト越しに、振動とともに近付くエンジン音。 迫り来る死への恐怖に戦慄する肌、早鐘のように打つ心臓。 そんな危機的状況にも関わらず、状況を理解できず、心中ではまだ、死にたくないと、暢気にも祈っていた。 そうして彼は叫ぶ。
「 ナァ ・・・・・ ! 」
耳を塞ぎたくなるような絶叫。 耐えられない激しい衝撃。
そうして一転する視界 " グリーン・ハレーション "
それは死者の色。 あれはジーンが見た映像。 あれは、もうずっと昔に過ぎ去った " 過去の映像 " 悪夢ではなく、現実と思い出すと同時に、ナルの目の前で丸い小さな香炉のような法具は、音もなく割れた。ざらりとした陶器の割れた破片の感触にナルが掌を開けば、そこにはもう元の形すらわからなくなった法具の残骸があった。
――― 術が返った・・・・・か。
ナルの自覚により割れた法具。 そのことで、ナルが術者であり、なおかつ対象者になっていたことが明確になり、ナルはそのまま割れた法具を抱えて床に身を投げ出し、頬をフローリングの床に押し付けた。 脳は自分が生き残るのに必要な情報を書き換える。 この法具はそれをサポートする。 サポートされ、あろうことか、この自分が記憶を塗り替えた。 驚きは鈍い衝撃となって胸を打ち、べっとりと口内を苦く汚した。その不快感に悪くなる胸が忌々しく、怒りのあまり眩暈がしそうだった。けれどその一方で常に冷静な意識の一部が、この現状の不条理さを分析しようとやっきになっていた。
――― それなら、僕は何を消したかったのか。
どっと押し寄せてきた疲労にぼんやりと霞んでいく脳裏の中、ナルは必死に思考の紐を手繰った。 ジーンの死は辛く、未だ胸に生々しい傷を残している。 けれど、ジーンの死を塗り替えたいなら、もっと早くにすっかり狂っていなければいけないはずだ。 仮にジーンの死を受け入れられないとするならば、話はもっと簡単でよかったのだ。 自分は日本にいるべきではない。イギリスの地で、ずっと、永遠に帰らないジーンを待っていればいいだけのことだ。しかしそうしなかった時点で自分はジーンの死をどこかで受け入れたことになる。ジーンを見失った事実を受け入れていた。
――― なぜ?
ジーンが側にいる。 それを望んだのは確かだろう。だからこんな記憶の塗り替えを行った。けれどそれだけではない。 ナルはそこでジーンが死亡したことによって得たものの存在に思い当たり、口元を歪めた。
――― 麻衣の記憶を消したくなかったから?
ジーンが死亡しなければ、まず間違いなく日本などには来なかっただろう。 そうして渋谷に事務所など設けず、それに付随する人間との接触もなかった。つまるところ、麻衣と付き合うこともなかった。 ジーンの生存を望むと同時に、自分はその現実を失うことを望まなかった。
――― だからこんな歪な記憶が生まれたというのか? ――― 自分は二度もジーンを失おうとしていたのか? ――― そして結局、その矛盾が原因で記憶の除去を失敗したのか?
ナルは小さな法具を見つめ、その先の窓ガラスに写る自分の姿を目にし、訝った。 甚だ不本意な推論だが、この術が解かれた原因となる矛盾は正しくそれだろう。けれど、
――― 不自然だな。
ナルは自分の本心のどこにも、死を疑わない自分がいることに思い当たり、眉根を寄せた。 死が覆らないこと、自分にもジーンにもある日死は突然訪れること、それをナルは理解していた。 何度も、何度も、嫌になるほどこの特殊な目は実体験として見てきたのだから。 それならば本心のどこかで自分はジーンの死を受けれていたのではないか? それなのに、どのような願望をしてこんな記憶の捏造が発生したというのか。 ナルはそこでふと蘇ったイメージと共にそれに気がつき、そのあまりの下らなさに脱力して瞼を閉じた。
「 すぐ帰ってくるからね! 」
ヒースロー空港で、ジーンは何気なく 『 帰ってくる 』 とナルに約束をした。けれどそのままジーンは客死し、行方不明となった。 見失ったジーンを見つけるのに、ナルは思いの他手間取り、ようやく発見された時は解剖もできないほど遺体は腐食していて、顔を見ても、骨を抱いても、墓を作っても、取り返した実感は湧かなかった。代わりに掌に残ったのは、ただ圧倒的な喪失感だった。 生命の理は理解できる。 けれど、片割れが約束を違えたその現実だけは、どうしても理解できなかった。あれが帰る場所は、自分の所しかないのに。 そんな盲目的な確信がますます混乱を深めた。 それこそ、知らぬ間に生命存続の危機に近づくほどに、自覚できないほど深く、深く、深く心をえぐったのだろう。 それに法具が反応した。
――― 塗り替えたかったのは、この記憶か。
もっと早くから気が付けばよかったのかもしれない。 そうすれば、あるいはこんな術中にはまることはなかったのかもしれない。 しかしそう考える端から、ナルは自分がこんな埒もないことにこだわり続けていたことなどに思いも至らなかったことを考え、それも無理かと諦めた。 誰が思いつくというのだろう。肉親の突然死を前にしても、涙一つこぼしはしないこの自分が、たわいない約束事にいつまでも惨めったらしくしがみ付いているなどと。 法具はナルの願いを体現していく。 本来はありえないはずのジーンと麻衣との共存が成立し、ジーンを失っても生きながらえるための理由が与えられる。 言語化してしまえばあまりにチープだ。 納得と満足、そして希望。 自分の精神はこの3つを作り上げ、そして来るべき " ジーンの死 " に準備をしたのだろう。 動かしがたいと本能で決め付けた約束の実行を補い、あまりに過酷な現実を受け入れるため、脳は記憶を書き換え、それを現実としようとした。
――― 乱暴なものだな・・・
3人で眠った狭いダブルベッドを思い出し、ナルは僅かに微笑んだ。 法具はただのきっかけに過ぎない。 おぞましさも、嫌悪感も、倫理感も、他人への暴力も何もかもを飲み込んで、脳はただ自分を守ることに忠実に働いた。ジーンを貶めても、麻衣も傷つけても、それでも致命傷を塗り替え、生き残るための " 現実の記憶 " を作り出したのは、誰あろう自分自身だ。 そしてこのまま気がつくことさえなかったら、それを " 現実 " として、生きていったのだろう。 人間の主観はそもそも、不確定な記憶から築き上げられているのだから。
「一人で勝手に死ぬのが悪いんだ」
呟き、ナルは片割れとそっくりの顔を両手で覆った。 その記憶が正しいのかどうかも、明確には分からない。 けれど心というものがあるのなら、それは違和感を感じていながらもなお、いま少し、いま少しとねだっていたのだろう。 違和感は常にあった。 やけに眠くて、集中力を欠くこと。 ずっと一緒にいることに、やけに固執していた自分達。 食い違い、その度に思い直していた過去の記憶。 けれど、それでもあの " 現実 "の中で生きたいと願ってしまっていたのだろう。 失ったジーンが戻り、さらに麻衣を手に入れる " 現実 " を。 それだけの望みが、記憶を混乱させた。結局はただそれだけのことだ。そうして手元に残った記憶だけが、今、また再び現実になる。
何もできず、約束は反故になったのだ。
それがナルに残った ” 記憶 ” だった。
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