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講義の後、渋谷に出かけたのはたまたまだった

行先はぶっちゃけどこでも良かった。銀座でも、新宿でも、秋葉原でも。気まぐれに渋谷を選んだだけ。

同じ路線、同じ車両、隣の座席に居合わせたのも偶然。

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滝川の言葉を借りれば、御仏のお導き。

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♯004  御仏のお導き

 

  

  

Tokyo
20XX

  

 

   

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最初、奏多は麻衣に気が付かなかった。

同じ電車に居合わせたことは気が付いてはいたがそれが麻衣だとは認識しておらず、小さい女性を視界に留めたに過ぎなかった。

その存在を気にしたのは、走行途中で乗客に紛れて変なものが車内に入り込んで来た時からだった。

ふらふらと左右に揺れながら歩いて来る随分性質の悪いソレを、奏多は意識せずに無視した。

隣に座っていた乗客も同様で、何も気にしていない素振りだった。

しかしそれが目の前を過ぎる時、大きく揺れたソレに足を踏まれそうになった。その時、隣の乗客は何気なく足を引き、ソレが完全に隣の車両に行ってしまうと、ほっと小さく溜息を洩らした。

あぁ、この人も視える人なのか、と、意識して初めて、奏多は隣に座る女性の細い腕に珊瑚色の数珠がかけられていたことに気が付いたのだった。

「渋谷さん!」

改札を抜け、渋谷のスクランブル交差点に入る手前で奏多は麻衣に声をかけたが、麻衣はしばらく呼ばれていることに気がつかなかった。肩を叩いてようやく振り返ってから、麻衣は申し訳なさそうに小さくなった。

「えっとぉ・・・ごめんなさい。どちら様でしょうか」

「先日空港で会った工藤です。あの、滝川さんと一緒にいた」

「ぼーさんと?」

「ええ、ホテルの部屋を見せてもらって・・・その後渋谷さんに相談させてもらった工藤奏多です」

「そう、ごめんねぇ。私物覚え悪くって」

微塵も悪びれることなく麻衣は謝ると、くすくすと笑った。

「それに″渋谷さん″なんて呼ばれ慣れていないから気が付かなかった」

「そうなんですか?」

「うん。普段は麻衣とかママって呼ばれるもの」

「ああ・・・」

海外生活ならばそんなものなのだろうと納得して、奏多もつられて微笑んだ。

「お子さんって大きいんですか?」

「お子さん・・・うん、そうね。本当はママって呼ぶ年でもないわ。下の子でも、君より年上だもの」

奏多が驚いて目を丸くすると、麻衣はくすくすとまた笑った。

「2人とも成人してるの。パパの出張だからって一緒に連れてくるわけにはいかないでしょう?」

麻衣はそう言うと近くの植え込み側の段に、小さな動物霊を避けてちょっと腰かけた。

その正面に立ち、奏多は首を傾げた。

「ええっと・・・渋谷さんは・・・」

「麻衣でいいわ。そう呼ばれてもピンと来ないから」

「・・・それじゃ、麻衣、さん。麻衣さんは視えるんですね」

「え?」

「さっき電車の中で隣の席だったんですよ。その時もいたでしょう?黒いの」

奏多はそう言いながら、横にうずくまっている小さな動物霊を気が付かれないようにそっと指差した。

「同業者だったと言っても、滝川さんは視えないし、渋谷さん・・・麻衣さんの旦那さんの方ですね。あの方も視えてはいないみたいでしたから、不思議だったんです」

奏多の問いかけに、麻衣はあぁと鷹揚に頷くと、小さく首をすくめた。

「私も昔は視えなかったのよ」

「そうなんですか?」

「状況によって強いのは視えたりしたけどね。視るのは仕事仲間に専門がいたのよ。私は半人前のおまけ。結婚して、子供を産んでからは気配くらいでほとんど視ることもなくなってたんだけどねぇ」

麻衣はそこで小さく溜息をついた。

「何年か前に事故に遭ったの。詳しくは調べていないし、ごく個人的な経緯だから説明もしようがないんだけど、頭を打ったのが原因なのかしらね。ぼーさんも昔頭打ってから視えなくなったみたいだし・・・・それからちょっと回線が変わったみたいで視えるようになったの」

「へぇぇ」

「事故から何年かはぼーとしていて記憶がないの。その時はよかったんだけど、意識がはっきりすると視界も随分はっきりしてきちゃって・・・よく視えるようになったの。その上なんだか色々引き寄せちゃうみたいで、ちょっと暮らしづらくなちゃってるのよ」

困っちゃうわね、と、ちっとも困ってない素振りで笑う麻衣の言葉に、奏多は少し慌てた。

「それなら・・・・渋谷なんて辛いでしょう?」

谷底という地形が悪いのか、人工が多過ぎるのか、渋谷には色んなものが混在している。

言われてみれば心なし麻衣の顔色は悪いように見えた。

「どうして一人でこんな場所に・・・」

「行きたい場所があったの」

奏多の質問にかぶせるように、麻衣は青白い顔に笑顔を貼り付けたまま顔を上げた。

「どうしても、行ってみたい場所があるの」

か細い、頼りなげな外見からは予想できない、はっきりとした意思表示に奏多は面食らった。

渋谷で思いつくめぼしい場所なんて店くらいだろう。そこにそんなに執着するなんて不思議だった。

「どこですか?」

好奇心から尋ねると、麻衣は数珠のかかった細い腕を伸ばし坂の上を指差した。

「 道玄坂 」

そのまま別れるのも忍びなく、奏多は暇だからと麻衣の同行を願い出た。

麻衣は特に頓着することなくそれを了解し、奏多には構わずずんずんと道元坂を登った。

渋谷の坂は結構な急こう配だ。

夏の盛り前だとしても東京の日差しは強く、歩くだけで汗ばんでくる。

しかし麻衣はまるで引っ張られるように、押されるように、駆けるような勢いで坂を上り、その途中で足を止めた。そこはなんてことない坂の途中。雑居ビルとマンションや小さな店舗が所狭しとぎゅうぎゅうに建ち並ぶ通りだった。麻衣は何度かその前後を歩き回り、路地を覗き込み、駅を見返し、最終的には一番最初に足を止め場場所に戻ってきた。

「やっぱりない・・・」

麻衣は今にも泣きだしそうな声でそう呟くと、がっくりと肩を落とした。

「え?行きたい場所ってここ・・・・ですか?」

奏多が辺りを窺いながら尋ねると、麻衣は諦め悪く周辺を歩きながら頷いた。

「もう何十年も前のことだから・・・ないかもしれないとは思っていたんだけど、本当にない。新しくビルが建ってしまったのね」

麻衣は落胆した様子を隠そうともせず、地面を蹴りながら、ビルの周辺をぐるりと一周した。

どうしたらいいのか分からず、奏多が黙ってついて歩くと、麻衣は歩きながらぽつぽつと昔話を始めた。

「昔むかし・・・・えっとぉ東京がバブルだった頃って言えば分かるかな?」

「僕が生まれる前ですね」

よく分からなかったので、ざっくばらんに言うと、麻衣は苦笑して頷いた。

「そう、そうね。それくらい前。ここにはレンガ調の2階建てビルがあったのよ。1階が洋服屋さんで正面にエスカレーターがあって、2階がオフィスになってるの。細い廊下があって、その先にブルーグレーのドアがあって…日当たりは悪かったけどそこそこ広いオフィスがあったの」

「はぁ・・・」

「高校の頃から大学まで、私そこでバイトしていたのよ」

「バイト先だったんですか?一体何の・・・」

「心霊調査事務所」

悪戯っ子のように、にやりと口の端を吊り上げた麻衣に、奏多はほっとしながら微笑んだ。

「それはまた珍しいバイト先ですね。あ、もしかして滝川さんってそこにいたんですか?」

「順番は前後するけど、まぁそんなものかなぁ。ナルがそこの所長で、ぼーさんは協力者の一人だったのよ」

「そうなんですか」

ようやく点と点が繋がったと奏多が合点する様子を眺めながら、麻衣は歩道の端から駅方面を仰いだ。

「毎日毎日、渋谷駅で降りて坂を登って通ってたの。お客さんは少なかったから基本暇で、よく事務所で宿題してた・・・優雅だよねぇ。さすがバブル。ぼーさんとか綾子とか真砂子とかジョンとかもよく遊びに来て、よく一緒にお茶してナルに叱られてた」

青ざめた顔に影が落ちた。

「10年以上、日本に帰って来れなかった。この先もいつ帰れるのか分かんない。実はもう2度と来れないのかもしれない。そう思ったら何だか悲しくなって、懐かしい場所に行きたくなったの。住んでた家とかももうないし、そうすると私にはこの事務所くらいしかないから、どうしても見てみたかったの・・・」

少し顔色が悪すぎるのではないか、と、奏多が思った瞬間、麻衣はそのまま前のめりに倒れ込んだ。