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「・・・・ここは?」

「あ、気が付きましたか?大丈夫です。病院ですよ」

「びょーーい、ん」

「麻衣さん熱中症で倒れたんですよ。救急車で運んでもらったんです」

「・・・・・・」

「とりあえず救急車には僕が付き添いました。あ、渋谷さんには滝川さん経由で連絡が付きましたから安心して下さい。ここまで迎えに来てくれるそうですよ」

「滝川・・・あぁ、ぼーさん?」

「そうです。熱中症も軽症だったみたいなので、あと1本点滴が終われば帰れるそうです」

ようやく気が付いた麻衣は傍目にも可哀そうになるくらい不安げだった。

少しでも安心させようと、奏多が思いつく限りのことを話してきかせると、挙動不審だった麻衣も幾分落ち着き、強張らせていた身体から力を抜いて救急センターの無骨な白いベッドに身体を預けた。

それからようやく奏多の存在に注目して、麻衣はぎこちなく微笑んだ。

「あなたが助けてくれたのね。ありがとう」

「どういたしまして」

それから少し躊躇い、麻衣は遠慮がちに尋ねた。

「ごめんなさい。どなたかしら?」

♯005  救急センター

 

  

  

Tokyo
20XX

  

 

   

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麻衣が再び寝付いたのを見届けてから奏多が待合室に出ると、ちょうど救急出入り口からナルが入ってくる所とかち合った。

外の闇から抜け出したような真っ黒な上下を着こんだナルは、さながら死神のような不吉な雰囲気を孕んでいた。抜けるように白い肌が病院の無機質な蛍光灯の光にあやしく反射し、ここで彼が人間ではなく妖怪や神様の類だと言われたらうっかり信じてしまいかねない独特の存在感を持っていた。

幾度か見慣れた顔とはいえ、マンツーマンで対面するにはいささかの勇気を必要とする人間であることには変わりない。奏多は滝川の不在を心から悔やみながら、偶然渋谷駅で居合わせたこと、現在点滴中であることまでをいくらかどもりながらもなんとか伝えた。

ナルは無表情に礼を言いながらも、不機嫌そうに小さく舌を鳴らした。

基本的に厳しい人だという印象はあったが、病人を相手に舌打ちはないだろう。

「どうしても見てみたかったそうです。なんだかとっても必死で、無理したんだと思います」

なぜか弁明まじりになる説明を続けながら、奏多はふと先ほどのやりとりを思い出し、念のためとそれも説明に付け加えた。

「日中に再度自己紹介して、普通に会話していたんですけど・・・倒れて病院で気が付いてから、麻衣さんは僕のことすっかり忘れているみたいだったんです」

倒れた瞬間咄嗟に手を出したので、頭からアスファルトに直撃することはなかった。

意識朦朧としていた時のことだから、意識が混濁したのかもしれない。

けれど、つい数時間前まで会話していた人物をすっかり忘れるなんて普通だろうか?

念のため医者に伝えた方がいいのではないだろうか。

しかし奏多の進言にナルは首を竦め、必要ないだろうと言って待合室の無骨な長椅子に腰を下ろした。

「オーバ−かもしれませんが、一応ってこともありますし・・・・」

「頭を打ったにせよ、転倒したレベルだろう。一両日安静にすればいい」

「でも!」

それは無責任だろうと言わんばかりの奏多のきつい口調に、ナルの瞳は胡乱な色をまとった。

そしてその小さい変化も不本意だと言わんばかりに瞼を閉じると、ナルは小さく溜息をついた。

「麻衣は10年ほど前に交通事故に遭っています」

「え?」

「脳挫傷で意識不明の重体。その後意識は戻ったが複数の後遺症が残っている」

「・・・・」

「事故に遭う前・・・厳密に言えば古ければ古い方がいい。麻衣はそういう記憶はしっかりしているんだが、事故後の記憶は曖昧なんだ。何度も顔を合わせ、会話をした相手でもしょっちゅう忘れてる。場所も、やったことも、次から次へと忘れる。だから君を忘れていてもなんの不思議もない」

日常茶飯事。

ナルの説明に奏多は呆然と立ちすくんだ。

言葉の意味が理解できない。

何度か反芻して、その後背筋がゾッとした。

ナルはその様子を斜に構えたままちらりと見やり、冷ややかに口の端を吊り上げた。

「リハビリによって身体機能はおよそ回復した。未だ左手の麻痺は残りほとんど使い物にならないが、まぁ生活に支障はない」

気がつかなかっただろう?と、ナルは顎をしゃくった。

「精神レベルも同様。その後の数年にわたる脳の委縮は・・・ネイチャーセラピー・・・偶然相性のいいパワースポットに通ったおかげで奇跡的に停止、縮小。その後、両親の介護が必要になると、意識は劇的に回復し現在に至る。庇護下では眠っていた意識が、庇護欲を刺激されたことにより活性化したのではないかというのが精神科の見立て。その間の数年間の記憶は麻衣にはない。その後意識は明確にはなったが、脳に損傷を受けたダメージは要所要所に残っている。ぼーさんが言っていたけれど、霊視能力の著しい向上。精神状態は不安定で、近しい記憶が覚えられない。おかげでよく憑依される。具体的な症状として顕著なのは言語だな。日本語はおよそ不自由しないが、英語はダメ。相手の言っていることは理解できるが、どうしても自分ではしゃべれない」

絶句する奏多に、ナルは偽悪的に微笑んだ。

「昔馴染みのぼーさん達との会話には何の不都合もない。日本語だしな。けれど、1日2日会ったぐらいの君を覚えるのはまずありえない。だから心配いらないんだ」

ナルはそれだけ言うと肩を竦め、麻衣が眠る処置室に視線を転じた。

「今日のことも・・・・どこまで記憶に残っているのか。そもそも渋谷には昨日行ったばかりだ」

「え?」

間が抜けた声が飛び出す程驚いた奏多を無視して、ナルは不機嫌そうに顔を顰めた。

「僕も甘かったな。ショック状態だったから今日一日は大人しくしていると思ったんだが・・・・」

何故だか泣き出したいような、複雑な感情が湧いた。

”大丈夫”な説明をいくら聞いても、それは昼間の麻衣が元気で、普通に見えた分だけより切ない。

それならば、青褪めるほど受けた彼女のショックはなんだったというのだろう。

「まぁ今更驚かないがな。ぼーさんが言っていただろう?麻衣の行動は昔から変わらない。予測不能。突拍子もなく何事かしでかしては、絶対にトラブルを持ち込む。こっちは走りまわされるばかりだが、第六感とタイミングの良さからなぜか本人はちゃっかり助かっているのがオチだ」

「・・・・・」

「何も変わっていない」

慰めのような、自戒のような、それでいて睦言のような、そんなことを呟いて、ナルは静かに瞼を閉じた。

ぼそぼそとそんな会話をしている最中に、待合室脇の事務室から年配の事務員が声をかけてきた。

「午後に運ばれた渋谷さんのご家族さん?それならちょっと手続きしてもらいたいんですけどねぇ」

小さな小窓越しにナルは書類を受け取り、明らかに面倒くさげに尋ねた。

「医療保険が該当しますね」

「え?あぁそうですよ。え?もしかしてないの?」

「いえ・・・・」

ナルはそこで年配の職員に自分達は外国籍の旅行者であることを告げた。

「え?外国の方?」

「ええ」

「でも・・・・搬送記録には渋谷って書いてあるけど?」

いぶかしそうな事務員にナルは淡々と答えた。

「生まれは日本人なんです。見た目は生粋のジャパニーズ。渋谷というのは、旧名というか・・・」

「あぁ、もしかして旧姓?奥さんの前の名前かい」

事務員以上に驚く奏多を余所に、年配の事務員はてきぱきと別の書類を準備し、大声で記入欄を指差し説明した。そして書類を受け取った職員は老眼鏡を傾けながら、難しい顔で欄を覗き込んだ。

「えっとぉ、ご本人さんがマイ・でい・・・ビス?」

「ええ」

「ご家族は夫ってことで、そちらさんですか?」

「ええ」

「で、ご主人さんの名前が・・・あの、なんてお呼びすればいいんですかね?」

端からアルファベット表記を読もうともしない事務員に、溜息とともに、ナルは小さく本名を名乗った。

「オリヴァー・デイビス」

ごく自然に発音された日本名ではない、本名。

それに対しては驚きよりもむしろ、納得が先に勝った。

彼らには謎が多過ぎたから、そういう裏がある方が自然に見えた。

____ オリヴァー・デイビス

ミステリの重要なヒントを覚えるように、奏多はこっそりその名を頭で唱え、記憶した。

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