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ホテルの部屋に戻るとすぐ、携帯に着信が入った。

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♯006  油性マジック

 

  

  

Tokyo
20XX

  

 

   

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着信は真砂子から。

『 ナル、麻衣の様子はいかがですの? 』

開口一番、コールの主の心配げな声にナルは溜息とともに簡潔に説明をした。

「ご心配おかけしましたが無事です。先日会ったぼーさんの知り合いが偶然居合わせたため、大事にならずに済みました。軽度の熱中症だったらしく、点滴のみの処置で、今はホテルでぐーぐー寝ています」

ナルの説明に電話の向こうでは良かったと溜息がつかれ、背後からも安堵の声の復唱が聞こえた。

『 やっぱり数時間でも目を離してはいけませんでしたわね 』

「ええ・・・」

『 明日のお仕事は10時からでしたわね。明日はナルが外出なさる前に真姫と2人でお伺いして、移動が可能であればそのまま自宅に連れてまいりますわ。それも難しそうならお部屋でお喋りしてますから 』

ナルの疲れた溜息に、電話の向こうではころころと笑いが起こった。

『 事務所に行こうとしていたのでしょう?そう責めないであげて下さいませね 』

「・・・・」

『 他の煩い面子にはあたくしの方から連絡しておきますわ。ともかくナルもお疲れ様でした。今晩はゆっくり休まれて下さいませ 』

相手の性格を熟知しているせいだろう。

真砂子は余計なことは何一つ言わず、短い会話だけですぐ通話を切った。

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麻衣が熟睡しているのを見計らってから、ナルは部屋の浴室に入りシャワーを浴びた。

中々汗をかかない体質だが、湿度の高い夏季の日本は空気がべとついて気持ちが悪い。

ドライヤーを使うのもだるく、タオルドライだけで浴室を出ると、時刻は1時13分を指していた。時間からすればまだまだ夜は長いと言えたが、いかんせん疲労がたまっていた。

寝酒でもと備え付けの冷蔵庫を物色していると、ベッドから間の抜けた声がかかった。

「・・・・ここどこぉ」

寝ぼけた声に殺意を感じながら振り返ると、麻衣がベッドの上に起き上っていた。

「日本滞在中のホテル」

ナルの説明に麻衣は日頃の習いで片時も離さず持ち歩いているメモ帳を探し始めた。書き込み過ぎてボロボロになっているメモ帳を見つけると、麻衣はベッドライトを付けようとしたが、ナルはそれを制して説明を続けた。

「日本での仕事が重なった。10日程の滞在。負担はかかるが、体力も回復していることから今回は僕と麻衣の2人で来日した。OK?」

薄明りの中、麻衣は驚いた顔をしたが、それから嬉しそうに頷いた。

「来日してすぐぼーさんに結界を張ってもらった」

「あぁ・・本当だ」

「以降、僕が仕事で不在にしている間は綾子さん、真砂子さん、それから真砂子さんの娘の真姫が交代で麻衣についていた。今は日本時間で深夜1時。日付が変わったから一昨日になるが、一昨日は綾子さんの番。一緒に渋谷に出かけたそうだ」
渋谷という地名に麻衣の瞳が色めき立つ。

ナルはイライラしながら奥歯を噛みしめ、続きを話した。

「事務所跡はなかった。数年前に新しいビルが建っていて、面影もなかったそうだ」

「えぇ?!」

麻衣は不満そうに唇を尖らせた。

そのいちいちが勘に触る。

冷蔵庫に備え付けてあった飲み物はめぼしいものがなく、辛うじて口にできそうなアルコールはビールぐらいしかなかった。そんな小さな不具合さえ、今は不幸の詰め合わせのようにずっしりと腹の底にストレスを与える。

ナルはこめかみを抑えながら抑揚のない声で淡々と続けた。

「実際に見た一昨日はショックが大きかった。酷く落ち込んでいて、疲れていた。翌日・・・つまり昨日は僕と一緒に外出予定だったが、ゆっくり休みたいというので、ホテルから出ないことを条件に許可した。15時過ぎには真砂子さんが顔を出す予定だったしな。ものの数時間だ。疲れてベッドから起き上がれないような状態だったし、そのくらい大丈夫だと思ったんだがな・・・・」

ナルの口調に唇を尖らせたいた麻衣の表情が明らかに強張った。

必死に心当たりのない記憶の糸を手繰る。

手繰った所で成果はないし、記憶があっても結果は一緒だろうが、恐怖の前の条件反射だ。

「ごめ・・・ん・・・・あの、あたし、何かした?」

いや、間違いなくしたのだろうが、問わずには済まされないだろう。

麻衣が観念して尋ねると、ナルは濡れた髪をかきあげにっこりと口の端を吊り上げた。

「バカだバカだとは思っていたが、ここまでバカとは思わなかった」

「うっ・・・え?」

「真砂子さんが訪ねた時、ホテルは無人」

「ほ?」

「お前はホテルを抜け出して、一人で勝手に渋谷に向かっていた」

「・・・うぅあ」

笑顔と困惑と恐れを合体させた奇妙な表情をした麻衣に、旅行中はと控えていたはずの毒舌が口から飛び出した。

「怖いもの知らずにも程があるだろう。猿でもまだ学習能力があるぞ?あぁ猪だったな。いやそれでは猪が可哀そうだな。大方渋谷ぐらい行けるとかなんとか勘違いしたのだろうが、なぜそこに思慮というものが存在しない。お前は条件反射で電車に乗るのか?」

「・・・・」

「偶然にも来日当日に会ったぼーさんの知り合いがその場に居合わせ、大事には至らなかったが、事務所跡付近で麻衣は熱中症で倒れ病院に搬送。処置後、僕がわざわざ病院まで迎えに行って、担いでここに戻って来たところだ」

「・・・・・・」

「理解できたか?」

「ご、ごごごごごごごめんなさい・・・」

ベッドの上にうなだれ、がっくりと両手を付く麻衣に苦虫を噛み潰しながら、ナルは冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

「忘れるのはいい。そんなものは折り込み済だ。だがな、そもそも一人だけの外出はやめろと普段から再三言っているにも関わらず無視するのがどうかという話だ。何度もメモしたはずだ。これぐらいは覚えているだろう?しかもホテルのドアには外に出ないこと、真砂子さんの来訪時間まで張り紙までしておいた。それなのにたった数時間だぞ?!その数時間に抜け出すなんて・・・」

「あぁ!」 

プルタブを開けた瞬間、ベッドから悲鳴が上がった。

何事かと動きを止めると、信じられないものを見たような驚愕の表情の麻衣が慌てて口を塞いでいた。

「・・・・・なんだ?」

弁解でもするつもりか、と、ナルが睨むと、麻衣はなんとか誤魔化そうと目を泳がせた。しかし追求の視線が逸れることはないと分かると、口元をゆがませながら、遠慮がちに言い訳した。

「・・・・・いや、だって、それホテルの冷蔵庫のだよね?高いからもったいな・・・・」

どっかんと、盛大な音を立ててナルの中の何かが噴火した。

翌朝、ホテルに到着した真砂子はしょげ返っていた麻衣を見て、むせる程笑った。

麻衣は反省していた。

しかし、寝て起きて、麻衣覚えていたのはとにかくただナルにしこたま怒られたことのみ。都合よく自分が仕出かしたことは忘れていて、朝から再びナルに脅されながらメモ帳に出来事を書き付ける体たらくだった。

真砂子は娘の真姫に諌められるまで笑い続け、ようやくしてからナルと麻衣を見比べ咳払いをした。

「それでは何だかちょっとナルが気の毒ですわね」

そうして真砂子は麻衣の右腕をつかむと、数珠を通した手首の脇に油性マジックで注意事項を書き付けた。

″ 一人では出歩かない ″

「うぉぉう?!真砂子?!」

「これなら絶対見ますでしょう?」

「コレ油性ペンじゃないの?消えないじゃん!!!」

「当たり前ですわ。消えたら困りますもの。いっそのこと日本土産に入れ墨でも彫りたいくらいですわ」

「え、え、え、え〜〜〜??」

慌てる麻衣の腕を掴んだまま、真砂子はにっこりと艶やかに微笑んでみせた。

「あ た く し が どれだけ心配したと思いまして?」

「う・・・・ん?」

「部屋の前で20分待ちぼうけ。中で倒れているかもしれないとホテルのスタッフを呼んで、部屋を開けてもらいましたらもの抜け空。あの時の驚きったらありませんでしたわ」

「ま・・・真砂子しゃん・・・・あの、ごめん・・・でも、ちょっと・・・痛い」

「ナルに滝川さんに綾子さんにジョン。安原もここにいる真姫もですわ。あなたの軽率な行動でどれだけの大人が振り回されたと思っているんですの?」

「うわーーーごめんなさいごめんなさいごめんなさい!痛い痛い痛い痛い!!!!!」

「お母さん!落ち着いて!!」

ギリギリと本気で腕を締め上げる真砂子に麻衣は悲鳴を上げ、真姫が慌てて中に入った。

「だって仕方ないじゃない。麻衣おばちゃまはご病気なんだから」

「あら人聞きの悪い。何もあたくしは麻衣の病気を責めているわけではありませんわ。麻衣の楽観的過ぎる、無責任な性格を責めておりますの」

「痛い痛い痛い痛い痛い!」

「一体あなたという人はいくつになったら落ち着きますの?!病気以前からの問題ですわ!」

責めてくれるなと他人には言っておきながら、自分は別か、と、ナルが自分とはまた違った方法で麻衣を叱る真砂子をぼんやりと眺めていると、真姫が慌てて声をかけた。

「ここは私がなんとかしますので、おじちゃまはお出かけになられて下さい。お仕事に遅れてしまいます」

晴人より2つ下になる真砂子の娘は、あの両親からどうしてこうなったかと思うほど裏のない優しい娘に育った。子育てとは不思議なものだと、ナルはあさってのことを考えながら真姫の申し出をありがたく受けた。

「ナル〜〜助けて〜〜真砂子が怖いぃ!」

「自業自得。こってり絞られろ。僕は仕事に行く」

「いってらっしゃいませ、ナル。お気をつけて」

「酷い!人でなし!!」

声高に攻め立てる麻衣に、ナルはおもむろに近づくとそっと小さな声で囁いた。

「明日は麻衣が楽しみにしていた皆勢揃いでの食事だ」

「うん?」

「ぼーさんに綾子さん・・・・今の真砂子さんの比ではない心配っぷりだったな」

途端に青褪める妻の顔を覗き込み、ナルは満足そうに微笑んだ。

「前哨戦と思って甘んじて受けておけ」

騒々しい声も、ドアを閉めると遠くなった。

溜息とともに歩き始めると、ふっと、昨晩の奏多の顔が脳裏をかすめた。

悲壮感たっぷりの辛気臭い顔。

もはや見飽きた表情だ。

上昇するエレベーターを待ちながら、ナルは目を細め、薄く笑った。

それに対して今部屋で繰り広げられている大騒ぎはあまりに似つかわしくない。しかし2人の息子も、そして滝川や綾子のような昔馴染みも、あの騒ぎの後麻衣を目の前にしたら同じようなことをするだろう。

暗くならずに済んでいるのはママのおかげ、と言ったのは晴人だったか、優人だったか。

昔馴染みはそのことをよく分かっている。

麻衣がどうして渋谷の事務所にそこまで拘るのか、ナルには正直その辺りの感情は理解できなかった。

しかし渋谷の事務所こそ、麻衣にとってはこの理解された安心感、生ぬるいような慕情感の象徴なのだろうことは推察できた。真砂子に言われるまでもない。それならば仕方がないと、少しは譲歩してやらねばならないのだろう。

「下らない」

思わず口に出た本心に、ナルは心から同意した。

けれど、それでも、分からないではない、と、言える自分もまた事実だった。

日本に住んでいた10代の頃は、自分がそう考えるなんて予想もしていなかった。そうなると予め知らされていたら、自分自身に幻滅すらしたかもしれない。

年を取ったものだと、ナルは自嘲気味に一人ごち、到着したエレベーターに乗り込んだ。